城南コベッツ横浜六浦教室

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2021.05.19

①「杜撰」(=ずさん)
意味1:詩や文章に、典拠の確かでないことを書くこと。また、その詩文。
意味2:物事がいいかげんで、誤りが多いこと。また、そのさま。
用例:「杜撰な管理」「杜撰なシステム」
由来:「杜」は宋の詩人、杜黙 (ともく)のこと、「撰」は詩文を作ること。
杜黙の作る詩に律(作詞の規則)を外れたものが多く、その由来は
南宋の王楙が著した『野客叢書』(やかくそうしょ)の次の箇所によります。
「杜默 為詩、多不合律。故言事不合格者為杜撰。」
杜黙(ともく)、詩を為(つくる)に、律(りつ)に合わざること多し。
故(ゆえ)に事の格に合わざる者を言いて、杜撰(ずさん)と為す。

②「愉快犯」(=ゆかいはん)
意味:人または社会を騒がせ、その醜態や慌(あわ)てふためく様子を
陰から観察する、あるいは想像して注目を浴びることによって、
快感を得ることを目的とした行為またはその犯人。法に抵触するか否か、
するとすればどの法に抵触するかは、実行した行為による。

③「軽挙妄動」(=けいきょもうどう)
意味:軽はずみに何も考えずに行動すること。是非の分別もなく動くこと。
「軽挙」は深く考えずに行動すること。
「妄動」は分別なくみだりに行動すること。

※再掲「責任転嫁」(=せきにんてんか)
意味=自分が負うべき責任を他のものに擦(なす)りつけること
由来=転嫁は、嫁を転がすという意味ではなく、二回目の嫁入り(=再嫁)という
意味です。転じて転嫁は、他に移すことを意味するようになりました。

2021.05.18

「暗黙知」とは言語化できない知識のことです。ハンガリーの物理化学者、
社会科学者であるマイケル・ポランニーの用語で、『暗黙知の次元』で
議論されました。人間の身体性に基づいた部分は言語化できないことが多く
たとえば、自転車の乗り方の多くの部分は言語化できません。

「九九(=くく)」は小学2年生で習いますが、これが最も基礎的な、
数についての暗黙知の元になるでしょう。「12」という数字を見て、
「=2×6」とか「=3×4」だと思いつけるのも暗黙知があればこそです。
これができると、小学5、6年生で出てくる分数の計算(約分や通分)、
さらには中学校で習う方程式や(素)因数分解、平方根の計算に、
すんなりと入っていくことができます。

また「メイクテン(=make10)」という数の遊びをくり返しやることで、
確実に数の力が身につきます。車のナンバープレートに書かれている
4桁の数字それぞれを、足す、引く、かける、わる、の四則を使って、
「10をつくる」という遊びです。ひとりで考えるのもよし、家族や友だちと
競争するのもよし。10をつくるために、あれこれ試行錯誤することで、
どんどん数に慣れていきます。

どうしても10にできない並びもありますが、本当にできないのかどうかを
確かめる過程そのものも数学力になりますから、ためしにやってみませんか。
基本は「+」「−」「×」「÷」と( )を使うのですが、さらに何乗を使ってよいなど
独自のルールを加えていくと、さらに計算力は向上します。「10をつくる」
という最終的な答えや目標を常に頭に置きつつ、個別の数の性質や
使い方を見ていくというところが、脳のトレーニングとしては優れています。

2021.05.17

「カルネアデスの板」とは、古代ギリシアの哲学者、カルネアデスが
出したといわれる問題です。倫理における思考実験の一つです。

舞台は紀元前2世紀のギリシア。一隻の船が難破し、乗組員は全員海に
投げ出されました。一人の男が命からがら、壊れた船の板切れ(船板)に
すがりつきました。するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が
現れました。しかし、二人がつかまれば板が沈んでしまうと考えた男は、
後から来た者を突き飛ばして水死させてしまったのです。その後、
救助された男は殺人罪で裁判にかけられましたが、罪に問われなかった
というものです。

これは、「緊急避難」の例として、現代でもしばしば引用される寓話です。
日本の法律では、刑法第37条の「緊急避難」に該当すれば、この男は
罪に問われません。しかし、その行為によって守られた法益と侵害された
法益のバランスによっては、「過剰避難」とみなされる場合もあります。

舞台は近未来のニッポン。未知のウイルスが蔓延し、国民は打てば
助かるかもしれないとワクチンを求めていました。一人の男が命からがら、
ワクチン接種権を得ました。するとそこへもう一人、ワクチン接種権を
持った者が現れました。しかし、ワクチンは一人分しかありません。
二人には接種できないと考えた男は、ワクチンを優先して接種してもらい、
後から来た者は死んでしまいます。これは罪にあたるのかどうか。

ワクチン接種の優先順位の問題のみならず、最も多くの人々に最善の治療を
施すという、救急医療における「トリアージ」も、この国で起きている現実です。
現実から目を背けることは、だんだんできなくなってきているのです。

2021.05.14

「蜘蛛(くも)の糸」は、芥川龍之介が書いたはじめての児童文学作品です。

ある日、お釈迦さまは極楽の蓮池のほとりを歩いていました。
蓮池のはるか下には地獄があり、地獄を覗き込むことができます。
犍陀多(以下、カンダタ)という男が、地獄の血の池で溺れているのが見えました。
カンダタは生前、殺人や放火など多くの凶悪な罪を犯した大泥棒でした。
しかし、そんなカンダタでも一度だけ良いことをしていたのです。
道ばたの小さな蜘蛛の命を思いやり、踏み殺さずに助けてあげたのです。

お釈迦さまはカンダタを地獄から救ってあげようと、蜘蛛の糸を垂らしました。
カンダタが顔を上げると、一筋の銀色の糸がするすると垂れてきました。
カンダタはその蜘蛛の糸をつかんで、一生懸命に上へ上へとのぼります。
疲れたカンダタは、糸の途中にぶらさがって休憩していました。
ふと下を見ると、蜘蛛の糸に何百何千という罪人が、のぼってきています。
カンダタはこのままでは蜘蛛の糸が切れてしまうと考えました。
そして、こう叫んだのです。「この蜘蛛の糸はおれのものだぞ!下りろ!」

すると突然、蜘蛛の糸はカンダタがいる部分でぷつりと切れてしまいました。
カンダタは罪人たちといっしょに地獄へと、まっさかさまに落ちていきました。
あとには蜘蛛の糸がきらきらと光りながら、短く垂れているばかりでした。
一部始終を見ていたお釈迦様は、悲しそうな顔でまた歩き始めました。

仏教では、自分さえよければ他人なんてどうなってもよいという考え方を
「我利我利(=がりがり)」、この反対の考え方が、幸せになりたければ
相手を思いやりなさい。相手の幸せを思いやったた言葉や行動は、必ず
自分自身に思いやりとなって返ってくるという「自利利他(=じりりた)」です。
自利利他の生き方をするか、我利我利の考え方で生きるか、これこそが
幸せと不幸せの分かれ道なのです。

2021.05.13

「ナンバーワンよりオンリーワン」、「ナンバーワン」を目指すと周りから
浮いてしまうので、少しだけ周りと差をつけて自己をアピールする
「オンリーワン」を求めてしまう今時の若者たち。

1950年に発表された著作「孤独な群集(=The Lonely Crowd)」の中で、
デイヴィッド・リースマン(=David Riesman)は、「他人指向型」という
考え方を表しました。他人指向型の社会においては、行動の規範よりも
マスメディアを通じて知る人々を含めた他人の動向に注意を払って
社会に参加します。大衆の行動は、恥や罪という道徳的な観念ではなく、
不安によって動機付けられます。

限られた範囲の中で個性を出すという行動は、実は難しいことです。例えば、
アイドルグループの中で自分だけの「推し」を見つけるようなことが重要です。

他人志向者は、自分に自信がない傾向にあります。自信がない分、他人に
認められたいという承認欲求は強くなります。周りから浮かないようという
同調圧力と承認欲求が同時に存在しているのです。他人志向は
「周りと仲良く」という心理傾向ですから決して悪いことではありません。
しかし、自分が不安なので周りに合わせようとするのです。

この不安こそが、SNSの弊害なのです。周りで何が起こっているのか
不安なので、通知音が鳴るとスマホを覗いてしまう。そして反応してしまう。
こうして本来何かできるはずであった時間をどんどん失っていくのです。
現代社会を生きるには、他者に惑わされない自分の信念やこだわりと
いったものの必要でしょう。

(このブログは3年前に書いたもののリライトです。この1年で社会は
いっそう不安になりました。「自分らしさ」だけは失わないでください。)