城南コベッツ笹原駅前教室

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笹原駅前教室のメッセージ

『「あの戦争」は何だったのか』を読んで80年前の戦争について考える(城南コベッツ笹原駅前教室:福岡市南区井尻)

2025.08.01

こんにちは、教室長の木村です。

2025年の今年は、戦後80年の年にあたります。

今年の7月に講談社現代新書から出版された辻田真佐憲(著)『「あの戦争」は何だったのか』を読んで、80年前にあった戦争の問題について考えてみたいと思います。

まず、「あの戦争」を名称としてどのように呼ぶべきなのかという呼称の問題が大問題で、そのことについて辻田真佐憲さんは本のページを割いて詳しく論じています。

太平洋戦争、第二次世界大戦、十五年戦争、大東亜戦争、アジア・太平洋戦争、アジア太平洋戦争といった具合に、候補として考えられる呼称は、いくつも存在します。(「アジア・太平洋戦争」と「アジア太平洋戦争」のように、「・」を入れるか入れないかという細かい点さえ議論になっているものも存在します。)

これらの呼称の中で、特定のイデオロギーに偏らない中立的な名称として「第二次世界大戦」という名称が「あの戦争」の呼び名として一番ふさわしいのではないかというのが第一感になりますが、しかし、時系列を見てみると、「あの戦争=第二次世界大戦」と考えた場合には、「日本が関わった戦争のはじまり」をうまく表現できないことになります。

年表を見てみましょう。
1931年(昭和6年):満州事変(柳条湖事件が起きる)
1937年(昭和12年):日中戦争(盧溝橋事件が起きる)
1939年(昭和14年):第二次世界大戦(ドイツがポーランドに侵攻する)
1941年(昭和16年):太平洋戦争(日本が真珠湾攻撃を行う)
1945年(昭和20年):ポツダム宣言受諾(日本国軍隊の無条件降伏)

第二次世界大戦は1939年から1945年に行われた戦争で、「ポツダム宣言の受諾」という形で日本は戦争の終結に関わっていますが、「ドイツのポーランド侵攻」には日本は関わっていませんので、そうなると、1941年の真珠湾攻撃でアメリカに宣戦を布告した時にはじめて第二次世界大戦に参加することになったという理解になり、それ以前の満州事変や日中戦争のことをうまく捉えることができないことになります。

これに関しては興味深いエピソードがあって、ポツダム宣言が発せられたドイツ・ベルリン郊外のポツダムを辻田真佐憲さんが訪れた際に、ツェツィリエンホーフ宮殿の展示の歴史解説パネルに「日中戦争:アジアにおける第二次世界大戦のはじまり」、そして「ドイツのポーランド侵攻:ヨーロッパにおける第二次世界大戦のはじまり」と記載されていたのを見たのだというのです。

もしその歴史解説パネルの文言を字義通りに受け取ると、第二次世界大戦のはじまりは1937年の日中戦争ということになり、盧溝橋事件によって日本が第二次世界大戦をはじめてしまったというような話になってしまいます。

もちろん、通説的な見方では、第二次世界大戦のはじまりは1939年のドイツによるポーランド侵攻であったと捉えますので、その前の1937年に起きた盧溝橋事件によって日本が第二次世界大戦をはじめてしまったかのような印象を与えることは、いささか問題ありということになります。

さて、「あの戦争」の「はじまり」をどのように捉えるかという問題以外に、「終わり」とどのように捉えるのかという問題も存在します。

日本においては、昭和天皇による玉音放送がラジオで流れた1945年(昭和20年)8月15日を「終戦記念日」としていますが、日本がポツダム宣言の受諾を連合国側に通告したのは、その前日の8月14日です。

また、日本政府全権の外務大臣・重光葵と、大本営参謀総長・梅津美治郎が東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で降伏文書に調印したのは9月2日のことであり、国際的には、この9月2日が第二次世界大戦終結の日として捉えられています。

このような終戦の日付の問題以外に、辻田真佐憲さんは、「われわれがあの戦争を特別なものとしてではなく、歴史上に存在した数あるできごとのひとつとして扱えるようになる日はくるのだろうか」、すなわち、「あの戦争をめぐる問題系が『終わった』と本当にいえる日はいつ訪れるのか」ということを問いかけています。

「あの戦争」をめぐる問題系が「終わる」とすればどのような形になるのか、辻田真佐憲さんは次のような3つのシナリオを示しています。

一つめのシナリオは、戦争の記憶が「風化」されて「終わる」というものです。

今年2025年は戦後80年ですが、これからさらに戦後90年、戦後100年と時間が経過していくにつれて、実際に戦争を体験した人の数は減っていきます。

その結果、国民全体の戦争の記憶が「風化」してしまい、いつの間にか「終わる」というシナリオは、可能性として考えられます。

二つめのシナリオは、より大きな戦争、あるいはそれ以上に深刻な歴史的体験が到来することにより、新たな物語によって「上書き」されて、「あの戦争」という特権的な位置づけを喪失して「終わる」というものです。

これはあまり考えたくないシナリオですが、これも可能性が全くないわけではありません。

三つめのシナリオは、近代日本の歩みを、欧米列強に抗った正義の歴史として全面的に肯定するわけでもなく、逆にアジアを侵略した暗黒の歴史として一方的に断罪するわけでもない形で、「やがて然るべきところへと落ち着く」形で何らかの「国民の物語」が統合されて「終わる」というものです。

長い日本の歴史の中で、「明治維新」は近代国家としての日本を確立した「第二の建国」というべき位置づけになりますが、その建国史の総決算としての昭和の戦争が「あの戦争」ということになります。

また、長い日本の歴史の中で、「昭和時代」というものは、軍事的、経済的、あるいは政治的な意味において、良くも悪くも世界に影響を与え、歴史に爪痕を残した「黄金時代」であったということは言えると思います。

そういう意味で、昭和時代の「あの戦争」と、戦後日本の「経済大国」まで含めて、「昭和史」を多面的に捉え直して、多くの人に受容されるような「国民の物語」が樹立されていくという可能性は考えられます。

辻田真佐憲さんは、「あの戦争は、日本の近代史、あるいは近現代史という長い時間の流れのなかに位置づけて、はじめてその全体像が立ち上がってくる。そうした視点に立つことで、ようやくあの戦争は、過剰な肯定にも否定にもならず、落ち着くべきところに落ち着くのではないか。」と述べています。

いずれにしても、これからまた10年、20年と経過していけば、日本が途中で戦争に巻き込まれるということがない限り、戦後90年、戦後100年を迎えることになるわけで、特に「戦後100年」というのは大きな節目になるでしょう。

その大きな節目を見据えながら、私達は日本の近現代史や戦争の歴史を改めて振り返っていく必要があるのではないでしょうか。