城南コベッツ赤羽南教室

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赤羽南教室のメッセージ

【RINGOJUKUWORKS#37】子どもが質問する前に、大人が答えを与えていないか。 ――親切な大人が、子どもの成長する機会を奪ってしまうとき。

2026.10.22

RINGOJUKU WORKS|大人がする質問を、待っています。第4回

韓国ドラマ『トッケビ』の、あのベンチでの会話から始まったこのシリーズ。

これまで、質問すること、若い人たちの変化、そして仕事に対する姿勢について考えてきました。

今回は、子どもたちの話です。

そして、保護者の皆さんや、学校・塾の先生方にも、ぜひ一緒に考えていただきたいことがあります。

私たち大人は、子どもが自分で考え、気づき、行動する機会を、知らず知らずのうちに奪ってしまっていないでしょうか。

小学5年生と、お母さんの会話

先日、教室でこんなことがありました。

小学5年生の子が、お迎えに来たお母さんに、不満そうに言いました。

「今日、給食のセットが入ってなかったよ!」

すると、お母さんは、

「え?玄関に置くよって伝えたよね?」

と答えました。

しかし、子どもは納得しません。

「入ってなかったもん!」

お母さんは少し困った様子で、

「そう?......ごめんね」

と謝りました。

私は、そのやり取りを聞いていて、思わず首をかしげてしまいました。

小学5年生です。

小学校生活も、もう5年目。

給食で必要な物は、当然分かっています。

そして、何より、それは自分が使うものです。

お母さんが準備を手伝ってくれることは、ありがたいことです。

でも、自分が必要なものを持っているかどうか、最後に確認するのは誰の責任なのでしょうか。

私は、その親子の会話に、そっと加わりました。

「自分の荷物は、自分で最後に確認するべきだよね。お母さんを責めるのは違うんじゃない?」

すると、その子は、それ以上反論しませんでした。

先生に言われたから仕方がない、という気持ちもあったのかもしれません。

それでも、そこで初めて、自分にも責任があったことを受け止めたように見えました。

もちろん、そのご家庭で普段どのように準備をしているのか、詳しいことは分かりません。

その日、特別な事情があった可能性もあります。

しかし、私が気になったのは、忘れ物があったことではありません。

自分が使うものを忘れた子どもが、お母さんを責め、お母さんが謝ってしまったことです。

こうしたやり取りを目にするたびに、私は考えてしまいます。

子どもが自分の責任に気づくはずだった場面で、大人がその責任を引き受けてしまっていないだろうか。

忘れ物をしたら、困ればいい

少し乱暴に聞こえるかもしれません。

でも、私はそう思っています。

もちろん、命や安全に関わることや、年齢・発達段階に応じて支援が必要なことは別です。

しかし、小学5年生が自分の確認不足で持ち物を忘れた。

それは、本人が困る経験をしてもよい場面ではないでしょうか。

困ったら、どうするか。

先生に相談する。

学校で借りられるものがないか確認する。

次から忘れないように、自分で準備する。

いろいろな方法が考えられます。

そして、家に帰ってから、

「今日、忘れ物をして困ったから、明日からは自分で確認する」

そう言えるようになったら、一つ成長したことになると思います。

ところが、そこでお母さんが謝って話が終わってしまえば、どうでしょう。

子どもは、「お母さんが入れてくれなかったから困った」という理解のまま、終わってしまうかもしれません。

困った経験そのものが、成長につながるわけではありません。

大切なのは、その経験を通して、何を考え、次にどう行動するかです。

そして、その機会を大人が奪ってはいけないと思うのです。

「ごめんね」が、子どものためにならないこともある

私は、親が子どもに謝ることが悪いとは思いません。

大人が間違えたなら、きちんと謝るべきです。

親だからといって、子どもに対して間違いを認めなくてよいわけではありません。

しかし、今回のような場面では、少し考えてほしいのです。

お母さんは、持ち物を置く場所を伝えていたと言っています。

それでも、子どもは確認せず、お母さんを責めています。

そこでお母さんが謝ってしまう。

そのやり取りを通して、子どもは何を学ぶのでしょうか。

自分が使うものは、自分で確認する。

人に手伝ってもらったら、感謝する。

自分にも責任があるときには、人を一方的に責めない。

こうしたことを学ぶ機会だったのではないでしょうか。

私は、保護者の方に、何でも子どもの責任にしてほしいと言っているわけではありません。

ただ、子どもが引き受けるべき責任まで、大人が引き受ける必要はないと思っています。

それは、子どもを大切にすることと、必ずしも同じではありません。

子どもが困らないことと、成長することは違う

保護者の方が、子どもに困ってほしくないと思う気持ちは理解できます。

失敗してほしくない。

嫌な思いをしてほしくない。

できるだけ順調に成長してほしい。

しかし、私は時々考えます。

子どもが困らないようにすることと、子どもが困ったときに自分で何とかできるようにすることは、まったく違うのではないか。

子どもが困る前に、すべてを整えてあげる。

失敗しそうになったら、先に助ける。

分からないことがあれば、すぐに説明する。

その結果、目の前の子どもは困らずに済むかもしれません。

でも、その子が成長して、誰も先回りしてくれない環境に置かれたら、どうなるのでしょう。

私は、教育の目的は、子どもを困らせないことではないと思っています。

困ったときに、自分の力で何とかしようとする人間を育てること。

そこに、大きな意味があると思うのです。

算数でも、同じことが起きている

これは、生活面だけの問題ではありません。

勉強でも、同じことが起きています。

例えば、ご家庭で、子どもが算数の問題を解いているとします。

しばらく考えて、鉛筆が止まる。

そして、「分からない」と言う。

その瞬間に、保護者の方たちは説明を始めていませんか?

こうした場面は、珍しくないと思います。

でも、私は少し待ってほしいのです。

本当に、その子は何も分かっていないのでしょうか。

問題文の意味が分からないのか。

計算方法を忘れたのか。

考え方が思いつかないのか。

それとも、もう少し考えれば、自分で気づけるところまで来ているのか。

同じ「分からない」でも、その中身はまったく違います。

だから、よく見てほしいのです。

りんご塾赤羽南教室では、子どもが手を止めても、すぐには教えません。

ただし、何もせずに待っているわけではありません。

放置ではなく、子どもの視線の動きや鉛筆の進め方を講師は凝視しています。

その子が何を考え、どこで止まり、何に気づきかけているのか。

それを観察しながら、待っています。

必要であれば、ヒントを出します。

きちんと教えるべき場面では、教えます。

大切なのは、教えるか、教えないかという二者択一ではありません。

いつ、何を、どこまで教えるのか。

そこを判断することが、講師の仕事だと考えています。

質問が生まれる前に、説明してしまう

私は、教えすぎる指導には、大きな問題があると思っています。

それは、子どもが疑問を持つ機会を奪ってしまう可能性があることです。

例えば、子どもが図形の問題に取り組んでいるとします。

まだ、どこから考えればよいのか分かっていません。

そこで先生が、「ここに補助線を引けばいいんだよ」と教える。

確かに、それで問題は解けるかもしれません。

でも、本来なら、その子自身が、

「どこかに線を引いたら、分かるかな?」

「この三角形と、こっちの三角形には関係があるのかな?」

と考える機会があったはずです。

そして、試行錯誤しても分からなければ、「先生、ここに線を引いてもいいですか?」と質問するかもしれません。

私は、この過程に価値があると思っています。

もちろん、すべての子どもが自力でそこまで考えられるわけではありません。

だからこそ、指導者の観察と判断が必要です。

しかし、最初から答えに近いものを与えてしまえば、子どもが自分で疑問を持つ機会は少なくなります。

正解にたどり着くことだけを優先すると、正解にたどり着くまでの思考を失ってしまうことがある。

私は、それを心配しています。

大人は、子どもの「できた」を急ぎすぎていないか

教育の現場では、どうしても結果が求められます。

問題が解けた。

テストの点数が上がった。

次の単元に進めた。

もちろん、結果は大切です。

私自身、学力を伸ばすことや、成果を出すことを軽く考えているわけではありません。

しかし、私はそれと同じくらい、結果に至る過程を大切にしています。

子どもが問題を解けずに頭を抱えている。

何度も間違える。

消しゴムで消して、また書き直す。

そんな姿を見ると、大人はつい助けたくなります。

でも、そこで答えを教えれば、目の前の問題は解決しても、その子が自分で考える機会は終わってしまうかもしれません。

私は、子どもが自分の力で考え、試し、間違え、修正する経験を積んでほしいのです。

そして、必要なときには、自分から質問できるようになってほしい。

「できた」という結果だけでなく、「自分で何とかしようとした」という経験を積み重ねてほしい。

その積み重ねが、やがて本当の学力につながると考えています。

親切と過保護の境界線

私は、子どもに優しくすることと、子どもの代わりに何でもしてあげることは、違うと思っています。

忘れ物をしないように、毎日すべてを準備してあげる。

困らないように、先回りして説明してあげる。

失敗しないように、答えを教えてあげる。

それらは、目の前の子どもにとっては親切かもしれません。

しかし、長い目で見たとき、本当にその子のためになっているのでしょうか。

私は、子どもの成長を考えるとき、今だけを見てはいけないと思っています。

小学5年生の今。

中学生になったとき。

高校生になったとき。

そして、社会に出たとき。

その子が、誰かに指示されなくても、自分で考え、判断し、行動できるようになっているか。

そこまで考える必要があると思っています。

今、子どもが困らないことよりも、将来、困ったときに自分で動けること。

私は、そちらを大切にしたいのです。

「質問を待っています」

韓国ドラマ『トッケビ』の、キム秘書とドクファの会話に戻ります。

キム秘書は、ドクファに何でも教えてしまうのではなく、彼自身が周囲に関心を持ち、質問するようになるのを待っていました。

私は、この姿勢に教育との共通点を感じます。

もちろん、ドラマの中の大人同士の会話と、幼い子どもへの教育を、そのまま同じものとして考えることはできません。

それでも、相手の成長を信じ、必要以上に先回りしないという姿勢には、通じるものがあると思うのです。

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そして、私はもう一つ、大切なことがあると考えています。

待つことは、何もしないことではありません。

子どもを観察する。

考えていることを理解しようとする。

必要な援助を判断する。

そして、子ども自身が動き出す瞬間を大切にする。

それが、私たちの考える「待つ指導」です。

子どもの未来のために、何をしないか

教育について考えるとき、私たちはつい、「子どもに何をしてあげるべきか」という問いを立てます。

何を教えるか。

どんな教材を与えるか。

どんな経験をさせるか。

もちろん、それらは大切です。

でも、私はもう一つ、同じくらい重要な問いがあると思っています。

「子どものために、大人は何をしない方がよいのか」

すぐに答えを教えない。

できることまで代わりにやらない。

失敗する機会を、必要以上に奪わない。

自分で考える時間を、急いで終わらせない。

それは、子どもを突き放すことではありません。

子どもが自分の力で成長する可能性を信じることだと思っています。

最後に、保護者の皆さん、そして教育に携わる皆さんに問いかけたいと思います。

私たちは、子どもが困ったときに助ける大人であると同時に、子どもが自分で考え始めるまで待てる大人になっているでしょうか。

そして、

子どもが自分の責任に気づく前に、私たち大人が、その責任まで引き受けてしまっていないでしょうか。

私は、これからも自分自身に問い続けていきたいと思います。


次回・最終回:「大人がする質問」とは、何だろう。

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