赤羽南教室のメッセージ
【RINGOJUKU WORKS#11】教えるために、教えすぎない。大人の我慢も大事
2026.09.11
先日のRINGOJUKU WORKS番外編で、
私はこんなことを書きました。
「待つことが大切」と書いている本人が、待てない。
教育について文章を書いていると、どうしても話はきれいになります。
子どもが考えるまで待つ。
すぐに答えを教えない。
失敗を奪わない。
自分で気づくまで見守る。
どれも、私が本当に大切だと思っていることです。
でも実際の教室では、そんなに簡単ではありません。
もう少し待つべきか。
ここでヒントを出すべきか。
今日は教えてしまった方がいいのか。
授業時間には限りもあります。
私自身、待ちきれずにヒントを出してしまい、
授業が終わってから、
「あそこ、あと30秒待てたな」
と思うことがあります。
それでも私は、
「教えすぎない」ということを、赤羽南の教育で大切にしたいと思っています。
なぜなら、先生という仕事をしていると、子どもが分からない問題に出会ったとき、どうしても教えたくなるからです。
「ここは、こう考えるんだよ」
「この図を描いてみよう」
「この式を使えば解けるよ」
先生は答えを知っています。
だから、教えることはそれほど難しくありません。
説明すれば、授業はスムーズに進みます。
教材も先へ進みます。
一見すると、とても良い授業に見えます。
でも私は、ときどき思います。
先生が教えれば教えるほど、子どもが考える時間は減っていないだろうか。
今回は、そんな「教える」ということについて、もう少し深く考えてみたいと思います。
分からないと、先生を見る子
子どもたちを教えていると、問題を少し読んだだけで先生の顔を見る子がいます。
まだ何も試していません。
図も描いていません。
もう一度、問題を読み直してもいません。
それでも先生を見る。
そして、あっさり「分からない」と言います。
もちろん、本当に分からないのだと思います。
問題は、そのあとです。
先生が毎回、「これはこうやるんだよ」と教えてくれる。
すると子どもは、あることを学習します。
「分からなければ、先生に聞けばいい」
ということです。
私は、これは少し怖いと思っています。
その問題を解いたのは、本当に子どもなのか
先生がヒントを出す。
子どもが解く。
「できた!」
もちろん、それも大切な経験です。
でも、少し意地悪な見方をすると、その問題を解いたのは本当に子どもなのでしょうか。
先生が問題を整理して、
見るべきところを教えて、
考える方向を決めて、
最後の計算だけを子どもがした。
それでも答案には○がつきます。
けれど、
○がついたことと、その子が考えられるようになったことは同じではありません。
「分からない」から、考えることが始まる
教育では、「分かった」ことが良くて、「分からない」ことが悪いように扱われることがあります。
私は、そうは思いません。
むしろ、分からないときこそ、考えることが始まると思っています。
分からない。
もう一度読む。
図を描く。
数字をいれてみる。
違ったら消す。
別の数字や方法を試す。
また違ったら、そこで、もう一度考える。
この時間は、とても大切です。
先生がすぐに教えてしまえば、この時間はなくなります。
子どもが困っている時間を短くすることが、必ずしも良い教育とは限りません。
「教えるか」ではなく、「いつ、どこまで教えるか」
だからといって、「分からない」と言っている子を放っておくわけではありません。
先生は見ています。
どこまで分かっているのか。
問題文を正しく理解しているのか。
何を勘違いしているのか。
もう少し待てば、自分で気づきそうなのか。
それとも、このまま考え続けても進めないのか。
必要なら声をかけます。
必要ならヒントも出します。
一緒に考えることもあります。
そして、本当に必要なら教えます。
大切なのは、
「教えるか、教えないか」ではなく、「いつ、どこまで、教えるか」。
だと思っています。
実は、教えない方が難しい
先生が解き方を説明することは、ある意味では簡単です。
先生は答えを知っていますから、自分が知っている解き方を説明すればいい。
でも、子ども自身に考えさせながら、必要なところを少しだけ支えるとなると、一気に難しくなります。
この子には、もう少し待った方がいい。
この子には、一言だけ必要。
この子には、図を描くところまで手伝おう。
この子には、今日は最初から説明した方がいい。
同じ問題でも、子どもによって、あるいはその子の体調や気分によって違います。
だから赤羽南では、
「先生がどれだけ上手に説明したか」だけを、良い授業の基準にはしていません。
先生が話していなくても、子どもが考えている。
そんな時間も、授業だと思っています。
沈黙している時間も、授業です
教室で子どもが黙って問題を見ている。
先生も黙っている。
外から見ると、「先生、何もしていないのでは?」と思われるかもしれません(笑)。
でも、その子どもの頭の中では、いろいろなことが起きています。
考えている。
試している。
迷っている。
頭の中で図を動かしている。
以前に解いた問題を思い出している。
私は、この時間を簡単に壊したくありません。
先生が何か言えば、沈黙はなくなってしまいます。
と同時に、
子どもの思考を途中で止めてしまうこともあります。
だから、よく観察し、そして待ちます。
教育では、
何を言うかと同じくらい、いつ黙っているかが大切です。
「それだけしか進んでいないんですか?」
ただ、実際にこの教育を現場で続けるのは簡単ではありません。
赤羽南では、授業後に講師から保護者の方へ、その日の授業についてフィードバックをしています。
そのとき、ときどき、
「それだけしか進んでいないんですか?」
と言われることがあります。
保護者の方の立場から考えれば、その気持ちも分かります。
同じ授業時間なら、5ページより10ページ。
10ページより20ページ。
たくさん進んだ方が、たくさん勉強したように見えます。
でも、たとえば一つの難しい問題に20分かかったとします。
教材としては、たった一問です。
でも私は、その20分を、
「一問しか進まなかった20分」
とは考えていません。
教材は一問しか進まなかった。
でも、その子自身は大きく成長した。
そんな瞬間が授業の中には確かにあります。
学生講師一人に、教育方針の責任を背負わせない
これは、教えている講師にとっても簡単なことではありません。
赤羽南では、大学生の講師も子どもたちを指導しています。
授業後、保護者の方に進捗を報告したとき、
「それだけですか?」
と言われれば、当然気になります。
真面目な講師ほど、
「もっと進めなければ」
と思います。
すると次の授業では、少し早くヒントを出す。
少し早く説明する。
迷っていたら正解の方向を示す。
答えまで誘導する。
そうすれば教材は進みます。
授業後も、「今日はここまで進みました」と言いやすくなります。
でも、それを続けていけば、
赤羽南がやりたい教育から、少しずつ離れていきます。
だから私は、講師にも繰り返し伝えています。
その子が本当に考えている時間なら、それは授業です。
ページ数が少ないことを、必要以上に気にしなくていい。
教育方針の責任を、学生講師一人に背負わせるべきではありません。
それは、教室が持つべき責任です。
「何ページ進んだか」ではなく、「何が変わったか」
授業後のフィードバックも、
「今日は○ページから○ページまで進みました」
だけでは足りないと思っています。
たとえば、
「今日は一つの問題に時間を使いました。最初は手が止まっていましたが、すぐには解き方を教えずに待ちました。すると、自分から図を描き始めました。一度間違えましたが、自分で気づいて修正し、最後は自力で答えまでたどり着きました」
これも立派な授業報告です。
むしろ私が保護者の方に知っていただきたいのは、こちらです。
何ページ進んだかではなく、今日、その子の中で何が起きたのか。
何に困って、どう考えて正解にたどり着いたのか。
昨日まで先生の顔を見ていた子が、今日は自分で考えた。
何も書かなかった子が、図を描いた。
間違えたら止まっていた子が、もう一度やった。
そういう変化を、私たちは見ています。
答えを教えないことが目的ではない
もちろん、何が何でも答えを教えないわけではありません。
子どもが長い時間考えても、まったく進まないことがあります。
まだ知らない知識が必要な場合もあります。
そこまでの理解が足りていないこともあります。
そういうときには教えます。
場合によっては、最初から丁寧に全部説明します。
私は「自分で考えさせる教育」という言葉そのものにも、少し注意が必要だと思っています。
何でも一人で考えさせればいいわけではありません。
知らないことは、教えてもらえばいい。
人に聞くことも大切です。
一緒に考えることも大切です。
大事なのは、本人が考えるべきところまで、大人が先回りしないことです。
大学受験でも、同じことが起きる
これは、幼児や小学生だけの話ではありません。
大学受験生でも同じです。
見たことのない問題が出たとき、少し考えて、
「この問題は、どうやって解くんですか?」と聞く。
あるいは解説を見る。
でも入試問題では、
「この問題には、この解法を使います」
と誘導してはくれません。
自分で判断しなければなりません。
何を使うのか。
どこから始めるのか。
何が分かっているのか。
何を求めるのか。
だから私は大学受験数学を教えるときも、解法を覚えることだけではなく、
「最初の一手を自分で考えること」
を大切にしてきました。
そして、この力は高校3年生になって突然身につくものではありません。
年中と高3の「どうしよう」
年中の子が積み木を前にして、「どうしよう」と考えている。
高校3年生が入試問題を前にして、「どうしよう」と考えている。
扱っている内容は、まったく違います。
でも私は、この二つをそれほど別のものだとは思っていません。
分からなくても、何かやってみる。
違ったら、また考える。
この経験を、小さい頃から何度もしてほしい。
だから赤羽南では、子どもが困っているとき、すぐには助けないことがあります。
冷たいからではありません。
その「どうしよう」の時間に、育っているものがあると思っているからです。
同じ「できた」なら、「自分でできた」を
先生に教えてもらって正解する。
それも「できた」です。
でも、
ずっと考えて、
何度か間違えて、
最後に自分で気づいて、
「あっ!」となる。
同じ○でも、私は少し違うと思っています。
子どもに残るのは、「自分でなんとかできた」という経験です。
その経験が積み重なると、次に難しい問題が出たとき、すぐに先生に助けを求めるのではなく、
「ちょっとやってみよう」と思えるようになります。
私は、それを育てたいと思っています。
教えるために、教えすぎない
ここまで書くと、
「では赤羽南では、先生たちがいつも完璧に待てているのか」
と思われるかもしれません。
もちろん、そんなことはありません(笑)。
私自身、待てないことがあります。
ヒントを早く出しすぎたと反省することもあります。
学生の先生たちも迷います。
「ここは教えた方がいいですか?」
「もう少し待った方がいいですか?」
そんな相談もあります。
だからこそ、これはマニュアルにはできません。
「何分待ったらヒントを出す」
「何回間違えたら教える」
そんなルールで決められるものではないからです。
目の前の子どもを見て、その都度考える。
うまくいかなければ、授業が終わってからまた考える。
次は少し待ってみる。
次はもう少し早く助けてみる。
番外編でも書いたように、
理念とは、子どもをその通りに動かすためのマニュアルではなく、先生が迷ったときに戻る場所なのだと思います。
「教えすぎない」というのも、まさにそうです。
完璧にできているから掲げているのではありません。
難しいからこそ、大切にしたい。
そう思っています。
教えすぎない教育には、子どもの我慢だけが必要なのではありません。
先生にも我慢が必要です。
すぐ教えない。
すぐ助けない。
すぐページ数を稼ごうとしない。
そして保護者の方にも、
「考えている時間にも、学習としての価値がある」
ことを、少しずつ、そして繰り返し伝えていく必要があります。
子ども。
先生。
保護者。
そして教室。
みんなが同じ方向を向かなければ、この教育を続けることはできません。
先生の仕事は、教えることです。
これは間違いありません。
でも私は、教えることと、答えまで連れていくことは同じではないと思っています。
必要な知識は教える。
困っていれば支える。
でも、子どもが自分で歩けるところまで、先生が抱えて運ばない。
少し待つ。
少し離れる。
必要なときだけ手を貸す。
そして、自分でたどり着いたら一緒に喜ぶ。
それが、私たちの考える「教える」です。
だから赤羽南では、教えるために、教えすぎない。
教材が一問しか進まない日があってもいい。
教材よりも、その子自身が進んでいる。
私たちが見たいのは、そちらです。
そして、この教育を続けるためには、子どもだけではなく、
教える側も、待てる大人でなければならない。
いや、正確には、
待てる大人でありたい。






