赤羽南教室のメッセージ
【RINGOJUKU WORKS#20】能力を拡張できる未来。それは本当に幸せな社会なのだろうか
2026.09.27
先日、RINGOJUKU WORKSで、内閣府の「ムーンショット型研究開発制度」について書きました。
2050年までに、「人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」する。
その中では、人間の身体能力だけではなく、認知能力や知覚能力までテクノロジーによって拡張する研究が進められています。
前回の記事では、「そんな時代になったら、教育は何を教えるのだろう」ということを書きました。
ところが、記事を書いたあとも、この話がずっと頭に残っていました。
そして考えているうちに、もう一つの問いが出てきました。
人間が、今よりはるかに多くのことを「できる」ようになる。
それは素晴らしいことです。
でも――
「できないこと」がなくなっていく社会は、本当に人間にとって幸せなのだろうか。
今回は、そんなことを考えてみたいと思います。
「使わない自由」は、本当に自由なのか
たとえば将来、人間の認知能力を安全に拡張できる技術ができたとします。
記憶力を補える。
情報処理能力を高められる。
AIと連携して、今とは比較にならない速度で仕事ができる。
もちろん、最初は、「使いたい人が使えばいい」となるでしょう。
では、周囲のほとんどの人が使い始めたらどうでしょう。
能力を拡張した人なら1時間で終わる仕事に、自分は5時間かかる。
会社から見れば、当然生産性には差が出ます。
そんな社会で、「私は使いません」という選択は、本当に自由な選択であり続けられるのでしょうか。
少し似たことは、すでにあります。
スマートフォンを持つことは義務ではありません。
でも今、スマートフォンを一切使わずに生活しようとすると、かなり不便です。
誰にも強制されていない。
それでも、社会全体が使うことを前提に動き始めれば、
「使わない自由」は少しずつ小さくなっていく。
能力拡張技術でも、同じようなことが起こらないとは限りません。
子どもの能力を変えられるようになったら
教育に携わる人間として、私はこちらの方が気になります。
もし将来、子どもの記憶力を高められる。
計算能力を高められる。
情報処理能力を高められる。
そんな技術が安全に利用できるようになったとしたら。
親はどうするのでしょう。
「うちは使いません」と言うこともできます。
でも、周囲の子どもたちが使い始めたら。
学校の成績に差がつく。
入試にも影響する。
将来の職業選択にも影響する。
そんな状況になったとき、
親はきっと考えると思います。
「自分の考えを貫くことで、わが子を不利にしているのではないか」
これは難しい問題です。
誰かから強制されるわけではありません。
むしろ、子どもを大切に思うからこそ、使わざるを得ない。
そんな状況が生まれる可能性もあります。
私は、こちらの方が怖いと思っています。
「能力」をお金で買えるようになったら
もう一つ、大きな問題があります。
格差です。
今でも教育格差はあります。
家庭の経済状況。
住んでいる地域。
受けられる教育。
家庭にある本。
経験できること。
出会える大人。
さまざまな違いがあります。
では、もし将来、能力そのものを拡張する技術に大きなお金が必要になったらどうでしょう。
これまでは、「受けられる教育が違う」という格差でした。
それが、「使える能力そのものが違う」という格差になる可能性があります。
裕福な家庭ほど高度な能力拡張を利用できる。
その能力によって、さらに高度な教育を受ける。
より有利な仕事に就く。
そして次の世代にも、その環境を渡していく。
もちろん、そうならないための制度やルールも考えられていくでしょう。
でも、技術が人間の能力そのものに近づけば近づくほど、「誰がその技術を使えるのか」は非常に大きな問題になると思います。
では、「努力」とは何になるのだろう
私は数学を教えてきた人間なので、こんなことも考えます。
一人の生徒が、難しい数学の問題を30分考えて解いた。
もう一人は、拡張された認知能力によって30秒で解いた。
さて。
どちらを評価するのでしょう。
もっと言えば、入学試験そのものはどうなるのでしょう。
身体能力まで拡張できるなら、スポーツはどうなるのか。
AIと人間の認知が高度に連携するようになったら、仕事における、「この人は優秀だ」とは何を意味するのか。
才能。
努力。
能力。
実力。
これまで当たり前のように使ってきた言葉の意味そのものが変わるかもしれません。
そして、ここまで考えて、
私は教育者としてもっと気になることに行き着きました。
私が一番怖いのは、「失敗しなくていい社会」
今、りんご塾で子どもが難しい問題に出会ったとします。
試行錯誤を重ねるうちに、20分かかることもあります。
効率だけを考えれば、非常に悪いです。
先生が最初から解き方を教えれば、3分で終わるかもしれない。
AIなら数秒でしょう。
でも私は、その20分を無駄だとは思いません。
むしろ、その20分に教育があると思っています。
その20分で、何を学んでいるのか
子どもは、その20分間に算数だけを学んでいるわけではありません。
分からない状態に耐える。
自分で方法を探す。
やってみる。
失敗する。
違う方法を考える。
もう一度やる。
簡単に諦めない。
そして最後に、
できなかったことが、できるようになる。
こうしたものは、テストの点数にはなかなか表れません。
でも、人生を長く考えたらどうでしょう。
人生には、答えが分からない問題の方が圧倒的に多い。
仕事。
人間関係。
子育て。
進路。
生き方。
解法も解説もありません。
だから子どものうちに、「分からないけれど、自分でなんとかしてみる」
という経験を、私はたくさんしてほしいと思っています。
便利になることと、幸せになることは同じなのか
テクノロジーが進歩する。
失敗しなくて済む。
迷わなくて済む。
覚えなくても済む。
考えなくても済む。
苦労しなくても済む。
とても便利です。
私自身、便利なものは大好きです(笑)。
だから、昔の不便な時代に戻った方がいいと言いたいわけではありません。
ただ、一つだけ考えてしまいます。
便利になることと、幸せになることは、本当に同じなのだろうか。
人間は不思議です。
できなかったことができるようになると、うれしい。
分からなかったことが分かると、面白い。
負けると、悔しい。
失敗すると、工夫する。
苦労したから、達成したときに喜ぶ。
つまり私たちが「成長した」と感じる瞬間の多くは、その直前まで、何かができなかった時間の上に成り立っています。
だとしたら、「できない」を全部なくすことが、本当に人間を幸せにするのか。
私は、そこが少し分かりません。
子どもから「できない」を奪ってはいけない
これは2050年を待たなくても、今の教育にそのまま当てはまります。
子どもが困っている。
大人は助けたくなります。
分からないと言っていたら、教えてあげたくなります。
失敗しそうなら、失敗しないように先回りしたくなります。
親も先生も、その方が安心です。
でも、全部大人が取り除いてしまったら、子どもはいつ「困ったときに自分でなんとかする経験」をするのでしょう。
私は、子どもを困らせたいわけではありません。
失敗させたいわけでもありません。
ただ、失敗しても大丈夫な場所で、ちゃんと失敗させてあげたいと思っています。
教育とは、本来そういうものではないでしょうか。
「できる人」と「強い人」は違う
長く教育に関わっていると、勉強ができることと、人として強いことは同じではないと感じます。
難しい問題を解けても、失敗に極端に弱い子はいます。
知識が豊富でも、人とうまく関われないこともあります。
反対に、今はそれほど勉強が得意ではなくても、人の話を素直に聞ける。
失敗しても、もう一度やれる。
人に感謝できる。
約束を守れる。
困っている人に手を差し伸べられる。
そんな子もいます。
私は、後者を「勉強とは関係のない能力」だとは思っていません。
むしろ、長い人生では、非常に大きな力になると思っています。
能力が高くても、最後には「何に使うか」が残る
仮に2050年。
人間がテクノロジーによって、現在とは比較にならないほど高い能力を持てるようになったとします。
それでも、一つだけ残る問いがあります。
その能力を、何のために使うのか。
人を助けるためなのか。
自分だけが得をするためなのか。
新しいものを生み出すためなのか。
誰かを傷つけるためなのか。
能力を100倍にできたとしても、
その100倍の能力を何に使うか
まで、能力拡張技術が決めてくれるわけではありません。
そこを決めるのは、人間です。
だから私は、技術が進歩すればするほど、「人間を育てる教育」が必要になると思っています。
2050年を生きるのは、今の子どもたち
2050年というと、遠い未来に聞こえます。
でも、今6歳の子どもは、そのとき30歳です。
10歳なら34歳。
まさに社会の中心にいる世代です。
つまり2050年の社会を生きるのは、
今、私たちの目の前にいる子どもたちです。
だからこれは、未来技術だけの話ではありません。
今の教育の話でもあります。
「できるようになった」と「やった方がいい」は違う
ムーンショット目標1は、身体的・社会的制約を超えて多様な人が社会参加できるようにすることなどを目指した研究です。そこには、介護・育児を担う人、高齢者、障害のある人などの活動範囲を広げる可能性があります。また、研究では倫理的・法的・社会的な課題も扱われています。
私は、こうした技術そのものを否定したいわけではありません。
むしろ、人間の可能性を広げる素晴らしい技術がたくさん生まれると思います。
ただ、
「できるようになった」ことと、
「やった方がいい」ことは同じではありません。
技術的に可能になったとき、使うのか、使わないのか。
どこまで使うのか。
誰が使えるようにするのか。
使わない人の自由をどう守るのか。
それを考えるのは、結局人間です。
「できない」を経験できることが、贅沢になる未来
ここまで考えていて、ふと思いました。
もしかすると2050年には、
「できないことに時間をかけられる」こと自体が、贅沢になっているのかもしれません。
すぐに答えが出る。
AIが教えてくれる。
能力を補ってくれる。
失敗する前に予測してくれる。
そんな社会だからこそ、
分からない問題を20分考える。
失敗する。
悔しがる。
もう一度やる。
自分でできたと喜ぶ。
そんな一見非効率な時間に、大きな価値が生まれるのかもしれません。
だとしたら、今、りんご塾で子どもが問題の前で鉛筆を止めている時間も、決して無駄ではありません。
先生が横にいるのに、すぐには教えてくれない(笑)。
子どもは困る。
試す。
失敗する。
そして、自分で一歩進む。
私たちは、子どもから「できない」を全部取り上げない。
できないことを放置するのではありません。
できないことと向き合い、自分の力で「できる」に変える時間を残しておく。
それはもしかすると、これからの教育でますます大切になるのではないでしょうか。
私が昔から大切にしてきた言葉があります。
毎度のことで恐縮ですが、「人間的成長なくして、学力の向上なし」なんですよ、やっぱり。
今回もまた、この言葉に戻ってきました。
2050年には、「学力」という言葉の意味さえ、今とは大きく変わっているかもしれません。
それでも、「人間的成長」だけは、誰かに代わってもらうことができない。
そして私はもう一つ、「できない」を自分で「できる」に変えた経験も、誰かに代わってもらうことはできない。






