赤羽南教室のメッセージ
【RINGOJUKUWORKS#35】「質問しない若者」が増えたのは、なぜなのか。 ――知らないことより、知ろうとしないことが気になる。
2026.10.20
RINGOJUKU WORKS|大人がする質問を、待っています。第2回
前回、韓国ドラマ『トッケビ』の、ある会話について書きました。
(前回→RINGOJUKU WORKS#34|大人がする質問を、待っています。第1回)
御曹司のドクファと、彼を長く支えてきたキム秘書。
キム秘書は、ドクファが自分の周囲に関心を持ち、世の中や人々の喜びや悲しみについて質問するようになることを待っていました。
その会話が、私はとても好きです。
そして、あの場面を見るたびに、長年教育の仕事をしてきた自分自身の経験と重なるものを感じます。
今日は、少し厳しい話を書こうと思います。![]()
質問する人が、明らかに少なくなってきた
私は約30年間、教育の仕事に携わってきました。
小学生から高校生、大学受験生まで、多くの生徒を指導してきました。
また、大学生のアルバイト講師や社員とも、長い間一緒に仕事をしてきました。
その経験の中で、近年、強く感じていることがあります。
自分から質問する人の割合が、明らかに少なくなってきた。
これは私自身の現場での実感であり、統計的に確認した話ではありません。
もちろん、昔の若者が全員積極的だったわけではありません。
質問しない生徒も、指示を待つアルバイトも、以前からいました。
それでも、以前はもう少し、自分から聞いてくる人がいたように思います。
授業が終わった後に、
「この子には、どういう指導がいいんでしょうか?」
「自分だったらこう考えるんですが、どう思いますか?」
「先生、さっきの説明のところ、先生だったらどう伝えますか?」
そんな質問をしてくる人がいました。
質問から議論が始まり、議論から新しい発見が生まれる。
教える側の私自身が、若い人の質問によって考えさせられることも少なくありませんでした。
ところが最近、そういう機会が減ってきたように感じるのです。
分からないことがないのだろうか
もちろん、そんなはずはありません。
経験の浅い大学生講師が、最初から授業のすべてを理解しているはずはありません。
子どもたちも、初めて学ぶことばかりです。
分からないことは、いくらでもあるはずです。
それなのに、聞いてこない。
私は、ここに強い違和感があります。
ただし、質問しない理由は一つではないでしょう。
何を質問すればよいか分からない。
間違ったことを聞くのが恥ずかしい。
忙しそうな先生に声をかけにくい。
質問するための言葉が見つからない。
そういう人もいると思います。
そして、私たち指導する側が、質問しにくい雰囲気をつくっている可能性も考えなければなりません。
しかし、それらとは別に、私が気になっていることがあります。
そもそも、疑問を持っていないのではないか。
正確に言えば、疑問を持つほど、目の前のことに関心を向けていないのではないか。
そんなふうに感じる場面があるのです。
言われたことは、きちんとやる
最近の若い人たちを見ていると、真面目な人は少なくありません。
指示された仕事を、きちんとこなす人もいます。
決められた時間に来て、決められた仕事をする。
教えられた手順を守る。
それ自体は、もちろん大切なことです。
しかし、私は時々考えます。
言われたことを正しくこなすことと、仕事を理解していることは、同じなのだろうか。
例えば、講師が生徒の問題を丸付けするとします。
答えを確認し、正解なら丸を付ける。
これは仕事の手順です。
でも、その子がなぜ間違えたのか。
前にも同じ間違いをしていなかったか。
考え方は正しいのに、計算だけを間違えたのか。
それとも、根本的な理解が不足しているのか。
そこに関心を持つかどうかで、同じ丸付けでも、教育としての意味は大きく変わります。
指示された作業を終わらせることが目的になってしまえば、その先に疑問は生まれません。
しかし、目の前の子どもを理解したいと思えば、次々と疑問が生まれてくるはずです。
私は、仕事の質を決める大きな要素の一つが、ここにあると思っています。
子どもたちは、いつから質問しなくなるのだろう
では、なぜ質問しない人が増えたように感じるのでしょうか。
私は、その原因の一つが、子どもの頃からの学習環境にあるのではないかと考えています。
今の子どもたちは、実に多くのことを教えてもらえます。
学校でも、塾でも、家庭でも。
分からなければ説明してもらえる。
間違えれば直してもらえる。
困っていれば、大人が助けてくれる。
もちろん、それ自体が悪いわけではありません。
必要なときには、大人が助けるべきです。
ただ、私は気になるのです。
子ども自身が疑問を持つ前に、大人が答えを与えてしまっていないだろうか。
子どもが考えている途中なのに、先生が説明を始める。
子どもが困る前に、保護者が準備を整える。
子どもが失敗しそうになると、周囲の大人が先回りして失敗を防ぐ。
そうしたことが繰り返されれば、子どもは自分から考えたり、周囲を観察したり、質問したりする必要を感じにくくなるかもしれません。
私は、この可能性を軽く考えるべきではないと思っています。
「質問しなさい」と言えば、質問するようになるのか
ここが、非常に難しいところです。
質問しない生徒に、
「分からなかったら質問しなさい」
と言う。
大学生講師に、
「疑問があったら何でも聞いてください」
と伝える。
私自身も、こうした言葉を何度も使ってきました。
でも、それだけでは、なかなか変わりません。
なぜでしょうか。
私は、質問というものが、単なる行動ではないからだと思います。
質問の前には、必ず何かがあります。
何かに気づく。
不思議に思う。
もっと知りたいと思う。
今の状態を変えたいと思う。
その結果として、質問が生まれる。
つまり、質問は、関心や思考が外に表れたものの一つなのです。
だから、質問するという行動だけを求めても、その前にある関心や疑問が育っていなければ、なかなか質問は生まれないのでしょう。
質問できないことと、質問する気がないこと
ここは、はっきり区別して考えたいと思います。
質問したいのに、言葉にできない子どもがいます。
自分が何を理解していないのか、まだ整理できていない子どももいます。
そうした子には、質問するための力を育てる必要があります。
また、質問すると叱られる、馬鹿にされる、面倒そうな顔をされる。
そんな経験があれば、質問すること自体が怖くなるでしょう。
その場合には、まず安心して質問できる環境をつくることが必要です。
しかし、一方で、周囲のことに関心を持とうとしない人もいるように感じます。
自分の仕事が終われば、それでいい。
自分が困っていなければ、特に問題はない。
隣で何が起きていても、自分には関係がない。
もし、そうした姿勢が身についてしまっているとしたら、これは単に質問の仕方を教えるだけでは解決しません。
自分の外側にある世界に、どうやって関心を持ってもらうのか。
もっと根本的な問題になると思います。
私たち大人が、考えなければならないこと
ここまで、若い人たちについて書いてきました。
でも、私はこの問題を、若い人たちだけの責任にするつもりはありません。
むしろ、大人の側にこそ、考えなければならないことがあると思っています。
学校の先生は、子どもが自分で疑問を持つ時間を十分に与えているでしょうか。
塾の講師は、子どもが質問する前に、何でも説明してしまっていないでしょうか。
保護者は、子どもが困ったり失敗したりする機会を、必要以上に奪っていないでしょうか。
そして、私たち経営者や管理職は、若い社員が自分で考える機会をつくっているでしょうか。
質問してこないことを嘆きながら、実は質問する必要のない環境をつくってしまっている。
そんな可能性もあると思います。
私自身も例外ではありません。
長年、人を教え、人を育ててきたからこそ、自分の指導が本当に相手の成長につながっているのか、考え続けなければならないと思っています。
「聞かれなかったから」
もう一度、『トッケビ』のキム秘書の言葉に戻ります。
長い付き合いなのに、キム秘書に家族がいることさえ知らなかったドクファ。
どうして教えてくれなかったのかと尋ねられ、キム秘書は答えます。
「聞かれなかったから」
この言葉は、知識を教えることを拒んでいるのではありません。
キム秘書は、ドクファ自身が周囲に関心を持つようになるのを待っていたと語りました。
そして、その先には、世の中や周囲の人々の喜びや悲しみについて質問できる大人になってほしいという願いがあります。
私は、ここに人を育てることの本質があるように感じます。
知識は教えられます。
仕事の手順も教えられます。
質問の仕方も、ある程度は教えられるでしょう。
でも、周囲の人や物事に関心を持ち、自分から知ろうとする人間を育てることは、それほど簡単ではありません。
そして、それこそが、今の教育に求められている大切な課題の一つなのではないでしょうか。
最後に、教育に携わる皆さん、そして子どもを育てている保護者の皆さんに、問いかけたいと思います。
私たちは、子どもたちに質問することを教えているのでしょうか。
それとも、質問する必要のない環境を与え続けているのでしょうか。
この違いについて、私はもう少し考えてみたいと思います。
次回:「どうすればいいですか?」しか聞かない人たち。






