2025.07.04
城南コベッツ/りんご塾赤羽南教室の東木です。
今日は経営者の長谷に言われて、考えたことをポツポツ綴らせていただきます。
今日のテーマは、
『なぜうちの経営者は"時給3000円と500円"の世界を語るのか』
です。最後まで読んでいただけたら、嬉しいです。
昨日7月3日は、選挙の公示日でした。
各政党の政策を見ていると、「最低賃金アップ」を掲げる候補者が多く、争点の一つとなっていることが分かります。
そんな中、うちの教室の経営者・長谷は、それとは真逆の意見を口にしていました。
「最低賃金なんて、500円でいい。
その代わり、できる人間には3000円払うべきだ。」
最初は冗談かと思いましたが、どうやら本気のようです。
話を聞いていくうちに、なるほどと思わされる部分もありました。
長谷の言い分はこうです。
「全員の時給がある程度高く、横並びの状態だと、
本来もっと高く報いたい優秀な人にも十分な報酬が払えない。
一方で、仕事ができない人にも"とりあえずこれだけは払わなきゃいけない"という仕組みになっている。
それでは、できる人にも失礼だし、できない人にも成長の機会を奪っている。
本来、報酬というのは"何ができるか"によって大きく差がつくべきなんだ。」
最低賃金500円、という数字だけを切り取ればセンセーショナルで、反発も多いと思います。(長谷はしょっちゅう過激(?)なことを言います)
でもその背景にあるのは、「能力に応じて評価しよう」「差があることを学ぶ機会を奪うな」という、ある種の教育的な視点だとも感じました。
同じ大学生でも、仕事の質や責任感、姿勢によって差があって当たり前。
時給が一律に近ければ、自分の働きに対して疑問を持つこともなく、ただ"もらえるからやる"という発想になってしまいます。
報酬の差を通して初めて、「自分は何が足りないのか」「もっとできるようになりたい」という意欲が生まれる----
それは決して"格差を助長する"話ではなく、むしろ「人としての成長」を促すための厳しさなのだと思います。
教室で子どもたちと向き合う私たちも、どこかで「一生懸命やれば、誰でも同じように評価される」と言いたくなってしまいますが、本当はそんなに甘くない。
"できるようになる努力"ができる人、"責任を持って役割を果たせる人"が、きちんと報われる社会であってほしいと思います。
(ちなみに長谷は、「絶対評価なんてすぐにやめて、相対評価にすべきだ」とも言っています。)
(この話は、またそのうち書きます。)
私自身も、いま自分が受け取っている評価や報酬に対して、きちんと向き合っているか?
自分はそれに見合う働きをしているか?
そんな問いを久しぶりに自分に投げかけてみた日でした。
そしてできることなら、そんな問いを常に持ち続ける真剣な人たちと一緒に働き、学び続けていきたいとも、あらためて感じました。