城南コベッツ赤羽南教室

Tel:03-6903-8030

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受付時間: 15:30~20:00(火~金)/14:30~19:30(土)/休み(日月祝)

  • りんご塾(算数オリンピック対策)
  • atama+個別指導
  • 総合型・学校推薦型選抜対策(推薦ラボ)

赤羽南教室のメッセージ

2026.09.24

私は長く、高校生の大学受験を指導してきました。

その中で、最近よく考えることがあります。

高校生に、「なぜ、その大学のその学部に行きたいの?」と聞いたときのことです。

もちろん、しっかりした理由を持っている生徒もいます。

でも実際には、自分がその大学、その学部を選んだ理由を、自分の言葉できちんと説明できる高校生は、それほど多くありません。

「なんとなく興味があるから」

「楽しそうだから」

「就職に良さそうだから」

「親に勧められたから」

「学校の先生に合っていると言われたから」

そんな答えが返ってくることもあります。

私は、そこでさらに聞きます。

「何に興味があるの?」

「その学部では、具体的に何を勉強するの?」

「同じような学部がある大学と、何が違うの?」

すると、答えられなくなることがあります。

今年、こんなこともありました。

「雰囲気がよかったから、この大学にしました」

ある高校生に、「どうして、この大学にしたの?」と聞きました。

すると、「オープンキャンパスに行ったら、雰囲気がよかったからです」と答えました。

それ自体は、もちろん悪い理由ではありません。

大学は4年間通う場所です。

キャンパスの雰囲気。

学生の様子。

先生との距離。

施設。

通学環境。

実際に行ってみなければ分からないことはたくさんあります。

ですから私は、「そうなんだ。オープンキャンパスは何校くらい行ったの?」と聞きました。

すると、「1校です」と、堂々と答えました。

私は思わず、「1校だけ?」と聞き返しました。

そして、

「何校か行って、その中で『ここが一番雰囲気がよかった』なら分かるよ。でも1校しか見ていないのに、『雰囲気がよかったからここに決めた』って、選び方としてちょっとおかしくない?」

と言いました。

ものすごく嫌な顔をされました(笑)。

でも私は、その大学が悪いと言っているわけではありません。

その大学に行くな、と言っているわけでもありません。

自分で選ぶなら、ちゃんと選んでほしい。

ただ、それだけなんです。

何と比べて「よかった」のか

この話で私が気になったのは、「雰囲気で大学を決めたこと」ではありません。

比較する対象がないことです。

1校しか見ていない。

それなのに、「雰囲気がよかった」と言う。

では、何と比較して「よかった」と判断したのでしょう。

もちろん、自分が想像していた大学のイメージと比較したのかもしれません。

それでも、その大学が自分に合っているかを判断するのであれば、違う大学も見てみた方がいい。

2校見れば、違いが分かります。

3校、4校と見れば、

「私はこういう大学が好きなんだ」という自分の基準も、少しずつ見えてきます。

比較することで初めて、自分が何を大切にしているのかも分かってくるのです。

「自分で決めた」だけで、主体的なのだろうか

今の教育では、

「本人の意思を尊重する」

「自分で進路を決める」

「主体的に進路を選択する」

ということが、とても大切にされています。

私も、それには賛成です。

親や先生が大学を決めてしまうより、自分の人生なのだから、自分で決めた方がいい。

でも私は、「本人が自分で決めた」という事実だけで、それを主体的な選択と呼んでいいのだろうかと思うことがあります。

1校しか知らない。

他の大学を調べていない。

その学部で何を学ぶのかも、よく分かっていない。

卒業後にどんな道があるのかも知らない。

それでも、

「本人が行きたいと言っているから」

という理由で、その決定を尊重する。

それは、本当に本人の主体性を大切にしていることになるのでしょうか。

知らないものは、選べない

私は、ここがとても重要だと思っています。

知らないものは、選べません。

知らない大学は、志望校になりません。

知らない学問は、学びたい学問になりません。

知らない職業は、将来の夢にはなりません。

知らない生き方は、自分の人生の選択肢には入りません。

選択肢が三つしか見えていない人に、

「好きなものを自由に選んでいいよ」

と言えば、確かに本人が選んだことにはなります。

でも、本当はその外側に100の選択肢がある。

本人は、その存在すら知らない。

それを、「主体的に選択した」と言っていいのでしょうか。

高校生は、本当に大学を「選べる」のか

今、多くの高校では、

「大学で何を学びたいのか」

「将来、何をしたいのか」

「どんな仕事に就きたいのか」

を早い段階から考えさせます。

もちろん、それ自体は悪いことではありません。

ただ私は、高校生を長く見てきて思います。

その問いに答えるだけの材料を、私たち大人は彼らに渡してきたのでしょうか。

大学にどんな学問があるのか。

経済学と経営学は何が違うのか。

理学部と工学部では何が違うのか。

文学部では何を研究するのか。

大学によって同じ名前の学部でも何が違うのか。

そして、その先にどんな世界があるのか。

それをほとんど知らない高校生に、「あなたは何を学びたいですか?」と聞く。

考えてみれば、ずいぶん難しい質問です。

就職だって同じです

これは大学選びだけの話ではありません。

大学生になれば、今度は就職活動が始まります。

「どんな仕事がしたいですか?」

「どんな会社で働きたいですか?」

「あなたのキャリアプランは?」

と聞かれます。

でも、22歳の若者が、世の中の仕事をどれだけ知っているのでしょう。

営業とは何をする仕事なのか。

経理とは何なのか。

商品開発。

研究。

設計。

生産管理。

物流。

人事。

広報。

IT。

公務員。

起業。

大企業で働くこと。

中小企業で働くこと。

そもそも会社がどうやって利益を出し、その利益から人を雇い、給与を払い、組織を維持しているのか。

社会に出たことのない若者には、知らないことの方が圧倒的に多い。

その状態で、「自分らしい仕事を主体的に選びましょう」と言われても、簡単ではありません。

「やりたいことがない」のは、本人だけの問題なのか

高校生や大学生が、「やりたいことが分かりません」と言うことがあります。

すると大人は、「もっと自分の将来を真剣に考えなさい」と言いたくなります。

でも最近、私は少し違う見方もしています。

もしかすると、考えるための材料が足りないのではないか。

やりたいことがないのではなく、やりたいと思えるほど、世界を知らない。

そういうこともあるのではないでしょうか。

だとすれば、

「自分で決めなさい」

と言う前に、大人がやらなければならないことがあります。

選択には、「知る」が先にある

私は、選択には順番があると思っています。

知る。
経験する。
比べる。
考える。
迷う。
そして、選ぶ。

最初から「選ぶ」ではありません。

ところが、「主体性」という言葉を大切にしすぎるあまり、

大人が何かを勧めること、

大人が知らない世界を見せること、

「それ、本当に考えた?」と問い返すことまで、

子どもの主体性を邪魔することのように扱われることがあります。

私は違うと思っています。

子どもがまだ知らない世界を見せること。

それは、大人の大切な役割です。

「なぜ?」と聞くことは、選択を否定することではない

私は高校生に、「なぜ、その大学なの?」と聞きます。

「なぜ、その学部なの?」

「他の大学は調べた?」

「同じことを学べる大学はないの?」

「卒業したら何をしたいの?」

と聞きます。

別に、困らせたいわけではありません。

本人の選択を否定したいわけでもありません。

むしろ逆です。

その選択を、本当に本人のものにしてほしい。

だから聞くのです。

自分で決めるということは、「これにしました」と言うことではありません。

少なくとも私は、「なぜ、それを選んだのか」を自分の言葉で説明できるところまで考えてほしいと思っています。

そして、この話は幼児教育につながっています

ここまで大学や就職の話を書いてきました。

でも、これは高校生になって突然始まる話ではないと思っています。

自分で情報を集めて、考える。

違いを見つけ、比較する。

分からなければ調べ、自分の考えを言葉にする。

うまくいかなければ、もう一度やり方から考える。

こうした力は、18歳になった瞬間に突然身につくものではありません。

幼い頃から少しずつ育てていくものです。

だから、りんご塾赤羽南教室では、

「自主性を大切にする=何でも子どもに自由に選ばせる」とは考えていません。

「やりたくない」も、そのまま答えにはしない

子どもが、「やりたくない」と言うことがあります。

もちろん、その気持ちは受け止めます。

でも、「本人がやりたくないと言っていますから、やらせません」とは、必ずしも考えません。

なぜなら、その子はまだ、やった先に何があるのかを知らないからです。

難しそうだから嫌なのかもしれない。

初めてだから不安なのかもしれない。

できない自分を見たくないのかもしれない。

単に面倒なのかもしれない。

それでもやってみたら、「あれ、面白い」となることがあります。

昨日できなかったことができたとき、ものすごく嬉しそうな顔をすることがあります。

だから、ときには大人が、「これはやってみよう」と言うことも必要です。

それは、主体性を奪うことではないと思っています。

将来、自分で選べるものを増やしている。

私はそう考えています。

赤羽南で考える「自主性」

私たちが考える自主性は、「好きなことを自由にやること」ではありません。

先生に言われなくても、自分から始める。

次に何をするのか、自分で考える。

分からない問題でも、すぐに「教えて」と言わず、まず自分でなんとかしてみる。

使ったものを片づける。

約束を守る。

やると決めたところまではやる。

そうした、「自分から動ける力」を自主性だと考えています。

赤羽南で考える「主体性」

そして主体性は、自主性のその先にあると思っています。

何をするべきなのかを考える。

なぜそうするのかを考える。

いくつかの方法を比べる。

自分で選ぶ。

うまくいかなければ修正する。

そして、自分が選んだことに責任を持つ。

だから私たちは、難しい問題が出てきたとき、すぐに解き方を教えません。

「分からない」と言われたら、

「何が分からない?」

「問題には何て書いてある?」

「今までやったことで使えそうなものはない?」

と問い返します。

考える仕事を、子どもから奪わないためです。

ただし、放っておくわけではありません。

見て、必要なら手を貸します。

そして、自分でできることは、少しずつ本人に返していきます。

私は、

他律から自律へ。
自律から自主性へ。
自主性から主体性へ。

という流れがあると思っています。

「選ばせる」前に、「選べる人」を育てる

18歳になったとき、「どの大学に行く?」と聞かれる。

22歳になったとき、「どんな仕事をする?」と聞かれる。

その先にも、人生には何度も大きな選択があります。

そのときに、

「なんとなく」

「みんながそうしているから」

「最初に見たところがよかったから」ではなく、

いろいろなものを知り、

比べ、

考え、

迷い、

最後に、

「私は、これを選ぶ」

と言える人になってほしい。

そのために必要なのは、幼い頃から何でも本人に選ばせることではないと、私は思っています。

たくさんの言葉を知る。

たくさんのことを経験する。

知らない世界に触れる。

難しいことにも挑戦する。

人の話を聞く。

比較する。

自分の考えを言葉にする。

そして、少しずつ自分で決める範囲を広げていく。

「選ばせる」前に、「選べる人」を育てる。

それが、私たちが赤羽南で考えている自主性、そして主体性の教育です。


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2026.09.20

先日、RINGOJUKU WORKSで、私が中学生の頃に通っていた塾について書きました。

多磨学院。

東府中と府中に教室があった、今から50年近く前の塾です。

前の記事は、ほとんど私の記憶だけで書きました。

何しろ50年近く前の話です。

インターネットで検索しても、ほとんど情報が出てこない。

ですから書きながら、「本当にこんな塾だったのかな(笑)」と、自分でも少し思っていました。

ところが記事を書いたあと、見つけてしまいました。

多磨学院のFacebookページを。

しかも、昔の写真が大量に残っています。

教室。

先生たち。

生徒たち。

山。

山荘。

川。

一枚ずつ見ていくうちに、「あった!これだ!」の連続になりました。

そして分かったことがあります。

私の記憶は、大げさではありませんでした。

むしろ、記憶より、もっとめちゃくちゃな塾でした(笑)。

あの山荘が残っていた

前の記事で、多磨学院の合宿について書きました。

塾長の運転する車で山へ行く。

車の中では、みんなで声が枯れるほど歌う。

寝具がないのでシュラフを持っていく。

鍋と固形燃料も持っていく。

川の水を汲んで、インスタントラーメンを作る。

Facebookには、その山荘の写真が残っていました。

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八ヶ岳だったのか、奥多摩だったのか。

そこまで正確には覚えていません。

でも建物を見たら、「ああ、ここだ」となりました。

山荘の中で勉強している写真まであります。

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川もあった

そして、山荘の近くの川。

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これも覚えています。

ここで顔を洗いました。

そして、この川の水を汲んでラーメンを作りました。

Facebookには、その様子まで残っています。

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今なら、「その水、そのまま使って大丈夫なの?」

となるのでしょうが(笑)、当時そんなことを気にした記憶はありません。

水を汲む。

火をつける。

ラーメンを作る。

食べる。

それだけでした。

どうやら毎週、誰かが山へ行っていた(笑)

Facebookを見ていて、これにも驚きました。

一人の生徒が山へ行くのは年に数回だったとしても、多磨学院全体では、毎週のように、どこかのクラスが山へ出かけていたようです。

毎週です(笑)。

写真を見ると、山荘だけではありません。

南アルプス。

毛無山。

日杵山。

いろいろな山へ行っています。

教師と生徒が一緒に登っている。

改めて見ると、ここは塾なのか、山岳部なのか分かりません(笑)。

歌まで残っていた

さらに、こんなものまでありました。

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「多磨塾ソング集」です(笑)。

山へ向かう車の中では、本当にみんなで歌いました。

声が枯れるくらい歌う。

今回曲名を見て、「ああ、これも歌った」と、また記憶が戻ってきました。

50年近く経って、まさか歌まで出てくるとは思いませんでした。

そして、ファイトコール

多磨学院には、ファイトコールというものがありました。

ただし、決まった時間にやるわけではありません。

授業中、先生が、

「今日はこいつら、たるんでいる」

と感じる。

すると突然、プチッ。

教室の電気が消されます。

先生の話が始まる。

だんだん熱くなる。

そして最後は、

「KKファイト!」

「オー!」

「ファイト!」

「オー!」

これで気合いを入れ直して、また勉強します。

ところが、今回Facebookを見ていて思い出しました。

これには上がありました(笑)。

合宿中、もっとたるんでいると、

山荘の外へ連れ出されてファイトコール。

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さらに、もっともっとたるんでいると、

川へ連れて行かれてファイトコール(笑)。

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この写真を見つけたときは笑いました。

本当にやってるじゃないか(笑)。

自分の記憶の中で、多少話が大きくなっているのかと思っていました。

全然そんなことはありませんでした。

むしろ写真の方がすごい(笑)。

先生たち、大学生だったのか......

もう一つ驚いたのが、先生たちです。

Facebookによると、多磨学院の教師には、大学生や大学院生が大勢いたそうです。

これは知りませんでした。

中学生だった私から見ると、先生たちは完全な「大人」でした。

怖い。

授業は速い。

姿勢が悪ければ怒られる。

たるんでいれば電気を消される。

場合によっては川まで行く(笑)。

今の私から考えれば、20歳そこそこの先生もいたわけです。

それを知ったのも、今回の大きな驚きでした。

深夜1時、2時まで勉強していたらしい

府中のけやき並木にあった教室についての投稿には、深夜1時、2時まで生徒が残って勉強していたという話までありました。

そして生徒が帰ったあと、学生教師たちは、寝ないで八ヶ岳へ登山に行ったりしていた。

......。

これはもう、よく分かりません(笑)。

でも、「多磨学院ならありそう」と思えてしまうところが怖いです。

記憶より、もっとめちゃくちゃだった(笑)

今回Facebookを見つけて、一番安心したのは、私の記憶が間違っていなかったことです(笑)。

山へ行った。

川の水でラーメンを作った。

みんなで歌った。

突然電気を消された。

ファイトコールをした。

山荘の外でもやった。

川の中でもやった。

そして、ものすごく勉強した。

全部、本当にあったようです。

むしろ、私が忘れていたことの方が多かった(笑)。

50年近く経ってから、まさかこんな写真を見ることになるとは思いませんでした。

まだFacebookには、かなりの数の写真が残っています。

前の記事を書いたときには、「めちゃくちゃな塾だったなあ(笑)」と思っていました。

訂正します。

私が覚えていた以上に、めちゃくちゃで、生徒に対して超本気な塾でした(笑)。

そして――

私はやっぱり、全てに本気なこの塾が好きだったんだと思います。




2026.09.19

皆さんこんにちは!

東木です!

昨日、RINGOJUKU WORKSで、長谷先生がこんな記事を公開しました。

50年前、私が「本気になる教室」で教わったこと

長谷先生が中学生の頃に通っていた、多磨学院という塾について書いた記事です。

授業中に突然電気が消える。

先生が生徒たちに本気で語りかける。

最後には、全員でファイトコール。

塾なのに、クラスのみんなで山へ行く。

バスの中では声が枯れるほど歌う。

山荘では寝袋で寝る。

川の水で顔を洗う。

鍋と固形燃料を持っていき、川の近くで食事をする。

私は長谷先生から、これまでにも何度かそんな話を聞いていました。

もちろん、嘘だとは思っていません。

ただ、何しろ50年近く前の話です。

しかも、一つひとつの話がなかなか強烈です(笑)。

ところが昨日、この記事を公開したことで、長谷先生の中の何かに完全に火がついたようです。

土曜の朝、いきなり「これ見て」

昨日の記事を公開した、その翌朝。

土曜日の今日、私が出勤すると、長谷先生がいきなり、「これ見て」と言って、多磨学院のFacebookを見せてきました。(こちらです)

どうやら記事を書いたあと、自分が通っていた塾について、さらに調べ始めたようです。

Facebookには、当時の多磨学院の写真がたくさん残っていました。

昔の教室。

先生たち。

生徒たち。

山荘。

川。

マイクロバス。

その写真を一枚ずつ見ながら、長谷先生が説明してくれました。

「この教室、こんな感じだった」

「これが合宿所へ行くときのバス」

「ほら、川の近くで本当に食事してるでしょ?」

そして、満足そうに一言。

「ね? 本当だったでしょ?」

なぜか、ものすごくドヤ顔でした(笑)。

本当に、川の近くで鍋を使っていました

写真を見ると、本当に川の近くで、生徒たちが鍋を使って食事をしています。

長谷先生が以前から話していた、「川の近くでラーメンを作って、鍋から直接食べる」という話も、どうやら事実そのままだったようです。

むしろ写真を見ることで、本当にこんな塾があったんだということを、私のほうが改めて実感しました。

さらに驚いたのが、合宿所へ向かうマイクロバスの写真です。

多磨学院では、日程をずらして各クラスを別々に合宿に連れて行っていたそうです。

そのため、塾長は何度も何度もマイクロバスを運転して、生徒たちを山まで連れて行っていたとのこと。

これ、今の赤羽南に置き換えて考えてみると、ものすごいことです。

りんご塾の子どもたちをクラスごとに分ける。

それぞれ別の日に集合させる。

マイクロバスに乗せる。

先生が運転して山まで連れて行く。

川の近くで食事を作る。

山荘に泊める。

そして、また赤羽まで連れて帰る。

......。

考えただけで、いろいろすごいです(笑)。

バスで歌っていた曲が、CDになっていました

そして、私がいちばん衝撃を受けたのが、これです。

多磨学院では、合宿所へ向かうマイクロバスの中で、みんなで歌を歌っていたそうです。

それも、少し歌うという程度ではありません。

山に着く頃には、みんな声が枯れていたと長谷先生は言います。

この話も以前から聞いていました(脚色が含まれているかもしれないと思っていましたが、たぶんこれも事実なんだろうな、と思います(笑))。

ところがFacebookを見ていると、当時バスの中で歌っていた曲のリストが、後になってCDにまとめられていました。

塾の合宿へ向かうバスで歌っていた曲が、CDになっている。

え?塾ですよね?

そんな塾、ありますか?(笑)

でも、それだけ当時の生徒たちにとっても、先生たちにとっても、多磨学院で過ごした時間が大きなものだったのだと思います。

何十年たっても、先生や元生徒たちが集まる。

昔の写真を残している。

バスの中で歌った曲まで覚えている。

そして、それをCDにする。

単に授業を受けた塾というだけでは、ここまではならないと思います。

多磨学院は、そこで過ごした人たちにとって、人生の中にずっと残り続ける場所だったのだと思います。

そして、もう続編を書いています

長谷先生は、昨日の記事を書いて終わりではありませんでした。

昔の写真を見つけ、多磨学院のことをさらに調べ始め、早速、続編まで書き始めています(笑)。

昨日公開したばかりですが、昔の写真を見ながら、また色々考え始めています。

そして、やはり最後は赤羽南の話になります。

「人が本気になる教室をつくりたい」

多磨学院の話をしていたはずなのに、気がつけば赤羽南のこれからを考えていました。

長谷先生の原点なんですね

もちろん、多磨学院と赤羽南は、まったく違う教室です。

赤羽南では、授業中に突然電気を消して説教をしたりしません。

全員でファイトコールもしません。

子どもたちをマイクロバスに乗せて、クラスごとに山へ連れて行く予定もありません。

川の水でラーメンも作りません(笑)。

でも、

先生が本気で子どもと向き合えば、子どもも本気になる。

そこで過ごした時間が、その子の中に長く残るような教室をつくりたい。

その思いは、多磨学院から続いているのかもしれません。

私はこれまでに、「長谷先生の教育の考え方は、どこからきたのかな?」

と折に触れ考えてきましたが、今回、多磨学院の写真を見て、もう少しよくわかるようになりました。

まじで、想像以上に体育会系です(笑)。

長谷先生自身がかつて経験した、

本気の大人たちが、本気でつくった教室を、今度は自分が、今できる形で子どもたちへ返そうとしている。

長谷先生が、多磨学院をはじめとする、かつての教育の在り方について語る理由も、

赤羽南を普通の個別指導教室にしたくない理由も、

昨日の記事と、今朝見せてもらった写真が、私の中で少しつながりました。

一緒に作っていきましょう。

大人の本気が、子どもに伝わる教室を!


2026.09.18

前回は、ラグビー部員たちが本気になっている姿を見て、こんなことを書きました。

人は、何のためなら、ここまで本気になれるのか。

そして、人が本気になる教室とは、どんな場所なのだろう。

https://www.covez.jp/school/kanto/tokyo/kita/kitaakabaneekimae/message/entry_46886.html

あの記事を書いたあと、ふと、50年近く前のことを思い出しました。

そういえば、私自身が中学生の頃、そんな教室に通っていた。

名前は、多磨学院。

東府中の駅前と、府中駅のけやき並木沿いに教室がありました。

今考えても、かなり変わった塾でした。

いや、「昔はそういう塾もあった」という話ではありません。

当時から、かなり異質な塾として知られていました。

そして思い出していくうちに、私は少し不思議な感覚になりました。

今、自分がどんな教室を作りたいと思っているのか。

その原点の一つが、50年近く前のあの教室にあったのかもしれない。

そんなことに、今さら気づいたからです。

掃除をしていたおじさん

多磨学院では、入塾するときに必ず面接がありました。

生徒だけではありません。

保護者も一緒です。

そして、その面接で入塾を断られることも珍しくありませんでした。

私が入塾面接を受けた日のことを、今でも覚えています。

親と一緒に教室で待っていると、あまりきれいな格好をしていないおじさんが入ってきました。

そして、私たちの横で掃除を始めました。

私も親も、その人に普通に挨拶をしました。

その人が誰なのかは知りません。

私は当然、教室の掃除をしている人だと思っていました。

やがて面接の時間になりました。

そこへ入ってきた人を見て驚きました。

さっき掃除をしていたおじさんでした。

その人が、多磨学院の経営者だったのです。

そして面接の最後に言われました。

私と親が、掃除をしていた自分にきちんと挨拶をした。

だから、

「うちで面倒を見る。」

正確な言葉までは、50年近く前のことなので覚えていません。

でも、その意味のことを言われたのは、はっきり覚えています。

今考えると、すごい入塾面接です。

経営者だと分かっている人に挨拶するのとは違います。

掃除をしている、名前も知らないおじさん。

その人にどう接するかを見ていた。

それが意図的なものだったのか、たまたま掃除をしていただけなのかは分かりません。

ただ、多磨学院が成績だけを見て生徒を預かる塾ではなかったことは、間違いないと思います。

最初の授業で、いきなり怒鳴られた

私は中学2年生から高校1年生まで、多磨学院に通いました。

最初の授業だったと思います。

何気なく頬杖をついていたら、

「肘をつくんじゃない!」

いきなり先生に怒鳴られました。

椅子に座って足を前に投げ出していたときにも怒鳴られました。

問題を間違えたからではありません。

宿題を忘れたからでもありません。

授業を受ける姿勢を叱られたのです。

学ぶなら、学ぶ姿勢をとれ。

やるなら、本気でやれ。

そんな空気が教室全体にありました。

突然、教室の電気が消える

さらにすごいことがありました。

授業中、先生が、

「今日はこいつら、やる気がない」

と判断すると、突然、教室の電気が消えます。

真っ暗になります。

そして先生が話し始める。

最初は静かです。

「お前たち、なんでやらないんだ」

と、語りかけるように始まる。

ところが、だんだん熱が入ってくる。

声が大きくなる。

最後は叫ぶような説教になる。

ときには、先生自身が泣いていました。

そして説教が終わると、みんなでやるものがありました。

ファイトコールです。

「KK、ファイト!」

「オー!」

「ファイト!」

「オー!」

教室にいる生徒全員で叫びます。

50年近く経って文章にしてみても、

やっぱり、とんでもない塾です(笑)。

KKは「開成・筑駒」

クラスは学力別に6クラスほどに分かれていました。

一番上が、

KK。

開成・筑駒です。

その下に、

KW1、KW2......

と続きます。

KWは、

慶應・早稲田。

クラスの名前そのものが、目標校でした。

英語の長田(おさだ)先生。

数学の長田(ながた)先生。

今でも名前を覚えています。

授業は、

ジェットコースターのようでした。

ものすごいスピードと熱量で進んでいく。

ぼんやり座っていることなど許されません。

私は当時、多摩市立和田中学校に通っていました。

学年上位5人ほどは、みんな多磨学院に通っていました。

近所の塾ではありません。

生徒の中には、片道1時間ほどかけて通ってくる者もいました。

それでも通っていました。

午前は代ゼミ、午後は多磨学院

講習の時期になると、さらに強烈でした。

午前中は全員で代々木へ行き、代々木ゼミナールで授業を受ける。

終わったら府中へ戻り、

午後から多磨学院でまた授業です。

中学生です(笑)。

今なら、

「そこまでやるのか」

と思われるかもしれません。

でも、私たちはやっていました。

シュラフと鍋を持っていく合宿

合宿も頻繁にありました。

あの入塾面接で掃除をしていた経営者が、自分でマイクロバスを運転して、私たちを山荘まで連れていきます。

そのバスの中では、みんなで歌います。

普通に歌うのではありません。

絶叫です(笑)。

山荘に着く頃には、みんな声が枯れている。

山荘には布団もありません。

だから、

シュラフ持参。

鍋も持っていきました。

固形燃料も持っていく。

近くの川から水を汲んできて、その水を沸かし、インスタントラーメンを作って食べました。

冬はさらにすごい。

雪が積もっていれば、

自分たちで雪かきをしながら山荘まで進みます。

何のためにここまでやっていたのか(笑)。

でも不思議なことに、

50年近く経った今でも、川の水で作ったあのインスタントラーメンを覚えています。

私立高校に、落ちまくった

そんな私にも、高校受験がやってきました。

ところが、

私立高校に落ちまくりました。

一校、また一校。

不合格が続きました。

中学生ですから、当然こたえます。

そして、ある私立高校の後期試験を受けに行った日のことです。

試験会場へ向かって歩いていく。

すると、

校門の前に人がいました。

見覚えのある顔です。

一人ではありません。

多磨学院の先生たちが、全員そこにいました。

あれほど怖かった先生たちです。

頬杖をつけば怒鳴る。

足を投げ出せば怒鳴る。

やる気がないと電気を消して説教する。

その先生たちが、

私たちの受験のために、全員で校門の前に立っていました。

あのときは、

涙が出そうになりました。

なぜ、みんなあの塾についていったのか

今になって思います。

なぜ、あれほど厳しい塾に生徒が集まったのか。

なぜ、1時間もかけて通ったのか。

なぜ、怒鳴られても、説教されても、みんなついていったのか。

たぶん、

分かっていたんです。

先生たちが、本気だったことを。

怖かった。

厳しかった。

無茶苦茶なこともたくさんあった。

でも、

自分たちを本気で見てくれている。

それを、生徒は感じていたのだと思います。

「本気でやれ」と言っている大人たち自身が、

本気だったのです。

「よくやったな」

その後、私は都立国立高校に合格しました。

合格したことを伝えたときのことも覚えています。

普段はものすごく怖い先生たちが、みんな嬉しそうでした。

そして私のところへ来て、

「よくやったな。」

と声をかけてくれました。

怖い先生に褒められる。

あれは嬉しかった。

今でも覚えています。

高校数学では、解き方を教えてくれなかった

多磨学院は、基本的には高校入試で卒業する塾でした。

ただし数学だけは、卒業生に限って高校生も受け入れていました。

私は国立高校に進学したあとも、高校1年生の間、多磨学院で数学を習いました。

そこでの数学は、中学時代とはまた違う意味で強烈でした。

簡単には、問題の解き方を教えてくれないのです。

「この問題は、この公式を使って、こう解けばいい」

そんな授業ではありませんでした。

まず、自分で考える。

分からなくても考える。

いろいろ試す。

間違える。

また考える。

とにかく、考えさせる塾でした。

でも、

「教えてくれない塾」

ではありません。

ここが、とても大切なところです。

自分なりにしっかり考えて、

「ここまでは分かった。でも、ここから先がどうしても分からない」

と質問に行く。

そうすると、

先生は、とことん付き合ってくれました。

一つ質問する。

そこからまた疑問が出る。

もう一つ聞く。

それでも遅い時間まで、ずっと付き合ってくれる。

考えずに答えだけを聞こうとすれば、簡単には教えてくれない。

でも、

本気で考えた生徒の質問からは、絶対に逃げない。

そんな先生たちでした。

国立高校で、数学だけは上位に入れた

国立高校に入れば、周りには勉強のできる生徒がたくさんいました。

その中で私は、

数学だけは上位に入ることができました。

これは間違いなく、

多磨学院で数学を学んだおかげだと思っています。

たくさん問題を解いたから、というだけではありません。

私はあそこで、

「分からなければ、自分でなんとかする」

ということを身につけさせてもらった。

問題を見て、

すぐに解き方を教えてもらうのではない。

何が分かっているのか。

何を使えそうなのか。

どこから攻めればいいのか。

自分で考える。

つまり私は、

数学の問題の解き方ではなく、

数学の考え方を教えてもらったのだと思います。

50年後、自分も同じことをやっている

そして今回、多磨学院のことを書きながら、

自分でも少し驚きました。

今、私は幼児や小学生を指導するとき、

「教えすぎない」

ということを、とても大切にしています。

分からない。

だから先生を見る。

先生がすぐヒントを出す。

また分からない。

また先生を見る。

そんな授業にはしたくありません。

まず、自分でなんとかする。

間違えてもいい。

遠回りしてもいい。

簡単に諦めない。

考える。

それでも分からなかったら、一緒に考える。

私はずっと、

大学受験まで数学を教えてきた経験から、こういう指導をするようになったのだと思っていました。

もちろん、それもあるでしょう。

でも今回、

「あれ?」

と思いました。

私自身が、中学生、高校生の頃に、

それをやってもらっていたのです。

考える前には、簡単に教えない。

でも、

考えた後には、とことん付き合う。

50年近く前に多磨学院で教わったことが、

自分でも気づかないまま、

今の教室に残っているのかもしれません。

本当の「熱血」とは何だったのか

多磨学院を思い出すと、派手な場面がたくさんあります。

電気を消しての説教。

先生の涙。

ファイトコール。

バスの中での大合唱。

シュラフ。

雪かき。

川の水で作ったラーメン。

でも50年近く経って考えると、

多磨学院の先生たちの「本気」は、

そこだけにあったのではないように思います。

入塾のときには、

人に挨拶ができるかを見ていた。

生徒が本気で考えて質問に来たら、

遅くまで、とことん付き合った。

高校受験で苦しんでいるときには、

先生全員で受験校の校門まで来た。

合格したら、

あれほど怖かった先生たちが、

「よくやったな」

と本気で喜んだ。

もしかすると、

本当の「熱血」とは、

大声を出すことではないのかもしれません。

子どもに本気を求めるなら、大人が先に本気であること。

そして、

子どもが本気になったとき、教師も最後まで本気で付き合うこと。

今の私は、そんなふうに思います。

50年経っても、残っているもの

考えてみると、不思議です。

多磨学院で使っていた教材の内容は、ほとんど覚えていません。

どんな問題を解いたのかも、ほとんど覚えていない。

でも、

掃除をしていたおじさんに挨拶したことは覚えている。

その人が経営者だったと知って驚いたことも。

頬杖をついて怒鳴られたことも。

突然、教室が暗くなったことも。

先生が泣きながら話していたことも。

「KK、ファイト!」

「オー!」

と叫んだことも。

バスの中で声が枯れるまで歌ったことも。

シュラフで寝たことも。

雪をかきながら山荘へ向かったことも。

川の水で作ったラーメンも。

遅い時間まで数学の質問に付き合ってくれたことも。

そして何より、

受験校の校門の前に、先生たち全員が立っていた光景を覚えています。

50年近く経っても、消えません。

昔の教育に戻りたいわけではない

ここは、誤解のないように書いておきたいと思います。

私は、多磨学院を再現したいわけではありません。

昔の教育の方が良かった、と言いたいわけでもありません。

怒鳴ればいいとは思わない。

暗闇で説教すればいいとも思わない。

雪山を雪かきさせれば根性がつく、と言いたいわけでもない(笑)。

時代は変わりました。

子どもとの関わり方も変わりました。

変わって良かったことも、たくさんあります。

ただ、変えてはいけないものまで、一緒に手放してはいないだろうか。

最近、そんなことを考えます。

教育は、サービスなのだろうか

今の塾では、

分かりやすく教える。

褒める。

子どもに合わせる。

保護者の要望に応える。

もちろん、どれも大切です。

私自身も大切にしています。

でも教育が、それだけになってしまったらどうでしょう。

先生はサービスを提供する人。

生徒はサービスを受ける人。

そんな関係だけで、

人は本気になれるのでしょうか。

私は少し違うと思っています。

先生も本気になる。

生徒も本気になる。

ときにはぶつかる。

簡単にできないことから逃げない。

一緒に喜ぶ。

悔しがる。

そして、

「先生は、本気で自分を見ている」

と子どもが感じる。

教育には、そういうものが必要なのではないでしょうか。

「人間的成長なくして学力の向上なし」

私は長い間、

「人間的成長なくして学力の向上なし」

と言ってきました。

自分で考える。

約束を守る。

簡単に諦めない。

人の話を聞く。

挨拶をする。

周りの人を大切にする。

そして、

何かに本気になる。

なぜ自分が、こういうことを教育の中でこれほど大切にしているのか。

もちろん、これまで教えてきた何千人もの生徒たちから学んだことが一番大きいと思っています。

でも今になって考えると、

そのずっと奥の方に、

中学生だった私が、多磨学院で見た先生たちの姿も残っているのかもしれません。

そして高校生だった私が、

答えを教えてもらうのではなく、自分で考え続けた時間も。

人が本気になる教室

私は今、幼児や小学生を教えています。

50年前とは、まったく違う教室です。

ファイトコールもしません(笑)。

電気を消して説教もしません。

それでも、

作りたい教室があります。

先生が、本気で子どもを見る。

子どもも、本気になる。

すぐには教えない。

自分で考える。

簡単に諦めない。

それでも分からなくて、本気で聞きに来たら、

今度は先生が、本気で付き合う。

隣の子の頑張りが、自分にも伝わる。

難しい問題が解けなくて悔しい。

それでも考える。

できたら、本気で嬉しい。

友達ができたら、一緒に喜ぶ。

そして教室に入った瞬間、

「ここに来たら、やる。」

そんな空気がある。

私は、そんな教室を作りたい。

50年近く前。

中学生だった私は、そんなことを考えて多磨学院に通っていたわけではありません。

怒られて、

勉強して、

歌って、

笑って、

声を枯らして、

必死に高校受験をしていただけです。

でも50年近く経った今でも、

受験校の校門に立っていた先生たちの姿を覚えています。

遅くまで数学の質問に付き合ってくれた先生の姿を覚えています。

あの人たちは、

本気だった。

だから私たちも、

本気になれたのだと思います。

人は、本気の人間がいる場所で、本気になる。

そして教育とは、

知識を教えることだけではなく、

人が本気になれる場所をつくることなのかもしれません。


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2026.09.17

先日、ある動画を見ました。

https://www.instagram.com/reel/DWKPz9mk9pu/?stkn=MTdoc20xaWZzbzRscQ==

そこに映っていたのは、ラグビー部員たちが一つのことに本気になっている姿でした。

声を出す。

仲間を励ます。

自分も必死になる。

誰かに言われたからやっている、という感じではありません。

そこにいる全員が、その瞬間に入り込んでいる。

見ているうちに、私は一つのことを考えました。

人は、何のためなら、ここまで本気になれるのか。

「頑張りなさい」で、人は本気になるのか

教育の現場では、よく、

「もっと頑張ろう」

「やればできる」

「最後まで諦めない」

という言葉を使います。

私も使います。

でも、それだけで人が本気になるのなら、教育はそれほど難しくありません。

「頑張れ」と言われたから頑張る。

「集中しろ」と言われたから集中する。

そんなに簡単ではない。

本気というものは、

外から命令されて生まれるものではない

のだと思います。

では、何が人を本気にさせるのでしょうか。

一人では、ここまで熱くならない

動画を見ながら感じたのは、

人は、一人ではなかなかここまで熱くならない

ということでした。

仲間がいる。

隣で誰かが本気になっている。

声を出している。

悔しがっている。

喜んでいる。

それを見ているうちに、自分も熱くなる。

誰かの本気が、別の誰かに伝わっていく。

そして気づけば、

集団全体が本気になっている。

これは、勉強でも同じだと思います。

難しい問題を前に、子どもたちが笑う

りんご塾赤羽南教室でも、ときどき不思議な光景があります。

難しい問題を出す。

普通なら、

「えー、難しい」

「分からない」

となってもおかしくありません。

ところが、

難しい問題を見て、

笑っている子どもたちがいます。

もちろん、簡単だから笑っているのではありません。

むしろ逆です。

「なんだこれ」

「どうやるんだ」

と面白くなっている。

隣の子も考えている。

誰かが何かに気づく。

「あっ!」

という声が出る。

すると、それを見た別の子もまた考え始める。

私は、こういう瞬間が好きです。

先生が、

「集中しなさい」

と言わなくても、

子どもたちが勝手に集中している。

勉強させられているのではなく、自分たちで勉強を始めている。

そんな瞬間です。

本気は、伝染する

私は長い間、教育の仕事をしてきました。

その中で感じることがあります。

本気は、伝染します。

逆もあります。

先生が、

「まあ、このくらいでいいか」

と思っていれば、その空気は子どもに伝わります。

先生が時計ばかり見ていれば、それも伝わる。

「授業時間が終われば自分の仕事も終わり」

そんな気持ちも、おそらく子どもには分かります。

逆に、

先生が本気で考えている。

本気で悔しがっている。

本気で喜んでいる。

そうすると、不思議と子どもも変わります。

だから私は、

子どもに本気を求める前に、

大人の側が本気なのか

ということを考えなければならないと思っています。

本気とは、大声を出すことではない

ここで言う「本気」は、

大声を出すことではありません。

厳しくすることでもありません。

長時間勉強させることでもない。

目の前の子どもを、

本当に見ているか。

それだと思います。

この子は今、何を考えているのか。

なぜ手が止まったのか。

分からないのか。

考えているのか。

諦めようとしているのか。

あと30秒待った方がいいのか。

それとも、今は一言だけヒントを出すべきなのか。

一人ひとりを本気で見ようとすれば、教育は簡単ではありません。

マニュアル通りにはいかない。

昨日うまくいった方法が、今日の子には通用しないこともあります。

だから面白いのだと思います。

「できた」より、その前にあるもの

もちろん、塾ですから学力は大切です。

算数ができるようになる。

成績が上がる。

難しい問題が解ける。

それは当然、目指します。

でも私は、

「できた」

という結果だけではなく、

そこへ行くまでに、

どれだけ本気で考えたのか

を大切にしたいと思っています。

分からない。

考える。

間違える。

もう一度考える。

それでも分からない。

また考える。

そして、ある瞬間、

「あっ!」

と気づく。

その経験は、

正解を一つ手に入れることより、ずっと大きなものを子どもの中に残すことがあります。

人が本気になる教室

私は、

静かで整然としている教室だけが、良い教室だとは思っていません。

もちろん、騒がしければいいという意味でもありません。

私が作りたいのは、

人が本気になる教室です。

難しい問題を前に、

子どもが本気で考える。

隣の子も本気になる。

先生も本気になる。

誰かができたら、本気で喜ぶ。

できなければ、本気で悔しがる。

そして、

「もう一回やる」

と言う。

そんな教室です。

子どもたちが大人になったとき、

教室で解いた一つ一つの問題を覚えているとは思いません。

でも、

何かに本気になった時間は、残る。

私はそう思っています。

人は、何のためなら、ここまで本気になれるのか。

まだ、私にも完全な答えはありません。

でも一つだけ、確かなことがあります。

本気は、一人では生まれにくい。

誰かの本気が、

誰かの本気を生む。

だから私たち大人が、

まず本気で子どもたちと向き合う。

そこから、

人が本気になる教室

は始まるのだと思います。



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2026.09.16

最近、幼児や小学校低学年の子どもたちを指導する中で、改めて考えていることがあります。

日常会話としての日本語は、問題なく話せる。

こちらの話も聞けるし、自分の気持ちも伝えられる。

けれども、日本語の文章を読み、意味をつかみ、そこから考えることには、大きな負担を感じている。

そのような子どもが、確かにいます。

特に最近、幼稚園をインターナショナルスクールに通わせている、あるいは通わせていたご家庭から、日本語についてのご相談をいただくことが重なりました。

そこで今回は、英語教育の是非ではなく、

「日本語で学ぶ力」について、教室で感じていること

を書いてみたいと思います。

英語を学ぶことを否定したいわけではありません

最初に、はっきり書いておきたいことがあります。

私は、幼児期から英語に触れることや、インターナショナルスクールを選択することを否定したいわけではありません。

英語の音に自然に触れること。

英語で人と関わること。

異なる文化や考え方に出会うこと。

幼い頃から英語を身近に感じられることには、さまざまな価値があると思います。

また、どのような教育環境を選ぶかは、ご家庭ごとに事情も考え方も違います。

保護者の方は皆、その時点で子どもの将来を真剣に考え、よりよいと思う環境を選んでいます。

ですから、過去の選択が正しかった、間違っていたという話をしたいわけではありません。

ただ、実際に子どもたちを指導していると、英語力とは別に、確認しておかなければならないことがあると感じています。

普通に話せるから、日本語に問題はないのか

家庭では、普通に日本語を話している。

親子の会話も成立している。

そのため、保護者の方から見れば、日本語に大きな問題があるようには見えないことがあります。

しかし、日常生活で使う日本語と、学習に必要な日本語は同じではありません。

算数の文章題では、

「どちらが、いくつ多いのか」

「全部の中から、何を取り除いたのか」

「同じ数ずつ分けるとは、どういうことか」

「何と何を比べているのか」

といった言葉の関係を正確に読み取らなければなりません。

文章を読んで、場面を頭の中に描く。

必要な情報を整理する。

数量の関係をつかむ。

そして、ようやく式を考える。

算数の文章題を解くためには、計算力より前に、これだけの日本語の処理が必要なのです。

算数ができないのではなく、算数までたどり着けない

教室で問題文を読むように伝えると、読むこと自体を避けようとする子がいます。

文章を最後まで読まず、書かれている数字だけを拾う。

足し算か引き算かを、言葉の一部だけで判断しようとする。

読んではいるけれど、何が起きているのかを尋ねると説明できない。

ところが、同じ問題を絵や積み木で示すと、すぐに理解できることがあります。

これは、算数を考える力がないということではありません。

文章から場面をつくるところで止まっているため、持っている思考力を使う段階までたどり着けていないのです。

私は、この状態を単に、

「文章題が苦手」

「まだ幼いから仕方がない」

で終わらせてはいけないと思っています。

日本語で書かれた問題の意味が分からなければ、算数だけでなく、やがて国語、理科、社会でも同じところにつまずく可能性があるからです。

日本で生活していれば、日本語は自然に身につくのか

両親が日本人で、日本で生活し、家庭では日本語を使っている。

それなら、日本語は自然に身につく。

そう考えるのは、決して不自然なことではありません。

実際、日常会話としての日本語は、多くの場合、生活の中で身についていきます。

しかし、日本語の文章を読み、内容を理解し、自分の言葉で説明する力まで、すべて自然に身につくとは限りません。

幼児期は、園で先生の話を聞いたり、友達と言葉を交わしたり、絵本を読んでもらったりしながら、語彙や表現を急速に増やしていく時期です。

園生活の多くを英語で過ごしていれば、それだけ英語に触れる時間は増えます。

一方で、日本語による説明を聞くこと、日本語の物語に触れること、日本語で複雑な気持ちや出来事を表現することは、意識しなければ少なくなる可能性があります。

これは、誰かが悪いという話ではありません。

英語に触れる時間が増えれば、その分、何かに使う時間が減る。

一日の時間には限りがあるという、ごく自然な話です。

大切なのは、今から何をするか

もし日本語の文章を読むことに負担が見られたとしても、過去の教育環境を後悔する必要はありません。

大切なのは、気づいたときから何をするかです。

難しい国語の問題集を、急いで何冊もやらせる必要はありません。

まずは、日本語の本を一緒に読む。

子どもが一人で読むことを嫌がるなら、読み聞かせでも構いません。

読んだあとにテストのように質問するのではなく、

「どんなお話だった?」

「この子は、どうしてこうしたのかな」

「別の言い方をすると、どういうことだろう」

と、親子で自然に話してみる。

今日あった出来事を、順番に話してもらう。

子どもが使った言葉を、大人が少し別の表現に言い換えて返す。

そうした日々の積み重ねが、日本語で理解し、日本語で考えるための土台になります。

教室でも、算数だけを教えるわけにはいきません

赤羽南教室では、文章題の式だけを教えることはしません。

まず本人に問題文を読んでもらいます。

分からない言葉があれば、その意味を確認します。

何が起きているのか、自分の言葉で説明してもらいます。

必要であれば、絵や積み木を使って場面をつくります。

時間はかかります。

問題を解く枚数だけを考えれば、効率が悪いように見えるかもしれません。

しかし、ここを飛ばして式の立て方だけを覚えても、別の文章になれば、また解けなくなります。

私たちが育てたいのは、数字を見て計算方法を当てる力ではありません。

文章を読み、自分で状況を理解し、考えて答えを出す力です。

英語と日本語を、引き換えにしないために

英語を身につけることは、子どもの世界を広げます。

日本語で深く考えられることは、子どもの学びを支えます。

本来、どちらか一方を否定する必要はありません。

だからこそ、英語が話せているという一面だけで安心せず、

日本語の文章を自分で読めているか。

読んだ内容を理解できているか。

自分の考えや気持ちを、日本語で説明できているか。

そこにも目を向けてほしいと思います。

英語を学んできたことを、後悔する必要はありません。

インターナショナルスクールを選んだことを、責める必要もありません。

ただ、日本語で学ぶときに負担が見えたなら、その事実をそのままにしないことです。

英語を身につけることと、日本語で考えるための土台を育てることを、引き換えにしてはいけない。

子どもたちは、今この瞬間も、驚くほどの速さで成長しています。

だからこそ、大人の選択の正しさを議論するのではなく、目の前の子どもが今どこで困っているのかを見つめたい。

そして、英語も日本語も、その子が自分の世界を広げ、深く考えるための力になるように、一緒に育てていきたいと思っています。


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ブーーーーーーーン!!!





2026.09.15

こんにちは!東木です!

最近、「教室からのメッセージ」をご覧になっている方は、もしかするとお気づきかもしれません。

長谷先生が、猛烈な勢いでブログを書いています(笑)。

教育のこと。

子どもたちのこと。

保護者の方とのこと。

教室で起きたこと。

昔の経験から考えたこと。

さらには仕事のことや人生のことまで(笑)。

とにかく、次から次へと文章が出てきます。

でも、長谷先生を昔から知っている私からすると、「急にどうしたんだろう?」という感じは、まったくありません。

言いたいことがものすごくたくさんある人なのは、前から知っていました(笑)。

とにかく、話し始めると止まりません

長谷先生の昔話を聞いたり、教育や仕事について話したりしていると、本当に話が終わりません。

一つの話から、「あ、今の話で思い出したんだけど」と別の話が始まり、

そこからまた、「さっきの話って、俺はこう思うんだけどね」と次の話が始まる。

そして教育の話から仕事の話になり、仕事の話から人生の話になる(笑)。

もうお決まりの流れです。

気がつけば、とんでもない時間になっていることがあります。

以前、すっかり夜が遅くなってしまって、長谷先生の車で家まで送ってもらったことがありました。

家の前に着いたので、

「では、お疲れさまでした!」

......となるはずなのですが。

そこからまた話が始まる(笑)。

車を降りるだけなのに、なかなか降りられない。

話して、話して、また別の話になって。

気がついたら、

空が白くなっていました。

しかも、一度ではありません(笑)。

こうして書いてみると、ちょっと引くレベルかもしれません......(笑)。

でも、それくらい長谷先生は、何かについて語り始めると止まらない人です。

ところが、文章は書けませんでした(笑)

これだけ話せるのだから、文章もたくさん書けそうなものです。

ところが長谷先生は、以前から、「俺は文章が書けない」と言い張っていました。

実際、キーボードに向かって文章を書き始めると、

一行。

二行。

......。

止まる(笑)。

さっきまで何時間でもしゃべっていた人が、文字にしようとすると突然何も出てこなくなる。

そして、「やっぱり無理だ」と諦める(笑)。

ですから以前は、長谷先生が話したことを私が聞いて、

「つまり、こういうことですか?」

と確認しながら、私が文章にすることもよくありました。

長谷先生がしゃべる。
私が書く。

そんな分業です(笑)。

それを変えたのがAIでした

ところが、ここ最近になって状況が大きく変わりました。

AIです。

長谷先生の場合、「文章を書く」のは苦手でも、相手に向かって自分の考えを話すことなら、いくらでもできます。

AIと会話しながら、

「俺はこう思うんだけど」

「いや、そういうことじゃなくて」

「もっとこういう意味なんだよ」

と話していく。

すると、自分がずっと考えてきたことが文章になっていく。

これが相当うれしかったようです(笑)。

たぶん、「これだ!」という感じだったのでしょう。

最近では、AIと話していたら朝になっていたということも珍しくないそうです。

......。

昔は私が朝まで聞いていました。

今はAIが朝まで聞いています。

AIよ、本当にありがとう(笑)。

でも、ただ話したいわけではない

ここまで書くと、「長谷先生って、結局、自分の話を誰かに聞いてほしい人なのでは?」

と思われそうなので(笑)、一応ちゃんと書いておきます。

長谷先生が今、これだけ文章を書いている理由です。

一つは、保護者のみなさんと教室が、同じ方向を向いて子どもたちを育てていくため。

教室でどんなことを大切にしているのか。

なぜ、すぐに答えを教えないのか。

なぜ、先へ進ませるのか。

なぜ、勉強だけではなく、挨拶や約束、簡単に諦めないことまで言うのか。

授業でやっていることだけを見ていると、その理由まではなかなか伝わりません。

でも、教室が大切にしていることを保護者のみなさんにも知っていただければ、教室とご家庭が、同じ方向を向いて子どもたちを見ていくことができる。

長谷先生は、それをとても大切にしているようです。

そして、もう一つ。

一緒に働いている講師のみなさんにも、赤羽南教室が何を大切にしているのかを、もっと知ってほしいという目的があります。

私たちの教室には、いろいろな先生がいます。

授業のやり方も、これまでの経験も、子どもとの接し方も、それぞれ違います。

それでいいのだと思います。

でも、その根っこにある、「この教室は、子どもたちに何を身につけてほしいと思っているのか」という部分は、みんなで共有していたい。

それが教室としてのまとまりにもなるし、日々の指導を改善していくときの基準にもなる。

長谷先生自身、

「本当は一人ひとりの表情を見て直接話せれば、それが一番いい」と言っています。

......まあ、直接話したら朝になる可能性がありますが(笑)。

もちろん、保護者のみなさん全員、講師のみなさん全員と、何時間も話すわけにはいきません。

だから文章にして残す。

時間のあるときに読んでもらって、

「赤羽南教室って、こういうことを考えている教室なんだ」と少しずつ知ってもらう。

それが、今たくさんの記事を書いている一番の目的なのだそうです。

そして今度は、別の問題が起きました

文章にできるようになったことで、長谷先生の中に昔からあった話が、どんどん原稿になっています。

すると今度は、別の問題が発生しました。

執筆と公開のバランスが、まったく合いません(笑)。

文章はどんどん増える。

でも、実際に公開する前には私が文章を読んで、調整をしてから公開します。

表現を少し直したり、

「これはさすがに書かない方がいいんじゃないですか?」と言ったり(笑)。

つまり現在は、

長谷先生が書く。
東木が整える。
そして公開する。

という、新しい分業になりました。

ところが、書く方が圧倒的に速い(笑)。

未公開の記事がどんどんたまっていきます。

とうとう「休みの日も公開しよう」となりました

そこで先週、ついに長谷先生が言いました。

「もう、教室が休みの日も記事を公開しよう!」と。

そのため最近は、「教室からのメッセージ」がほぼ毎日のように更新されています。

教室がお休みなのに記事が出ていたら、

「ああ、たまっているんだな」

と思ってください(笑)。

そして今も、たまっています。

たぶん明日も増えます。

というわけで、これが最近の赤羽南です

今日は教育の話でも、子どもの話でもありません。

最近なぜ、赤羽南教室からこんなにたくさんの記事が出てくるのか。

その舞台裏を、ちょっとだけ書いてみました。

表に出ている文章だけを読んでいると分からない、こんな教室の裏側も、たまには面白いかなと思っています。

長谷先生の頭の中には、まだまだ書きたいことがあるようです。

というより、なくなる気配がありません(笑)。

でも、それを読んでくださる保護者のみなさんや、一緒に働く先生たちに、少しずつ、「赤羽南教室が何を大切にしているのか」が伝わっていくのなら、私も頑張って公開していこうと思います。

そんな、普段の記事から少しこぼれた赤羽南の話も、これからときどき、

【赤羽南余話】として書いてみようと思います。

......とはいえ。

この文章を書いている間にも、また新しい原稿が増えているかもしれません。

長谷先生。

ちょっとまってください(笑)。






2026.09.14

小学校受験が終わった。

進学する学校も決まった。

そして、中学受験をする予定はない。

場合によっては、高校受験もない。

では、これからの時間を、何に使いますか?

私は、これはとても大きな問いだと思っています。

「受験がない=勉強を急がなくていい」なのか

中学受験をする子は、小学校高学年になると受験勉強が本格化します。

高校受験をする子も、中学生になれば入試へ向けた勉強が始まります。

一方、内部進学を基本に考えている子どもには、その受験がありません。

すると、「受験がないから、今はそれほど勉強しなくてもいい」という考え方もあります。

もちろん、それも一つの考え方です。

でも私は、逆の見方もできると思っています。

受験がないからこそ、先へ進める。

受験がない最大のメリットは「先へ進めること」

中学受験をする子は、小学校高学年のかなりの時間を中学入試のために使います。

特殊算。

難しい文章題。

模試。

志望校対策。

過去問。

どれも、受験する子には必要な勉強です。

でも、中学受験をしないのであれば、その時間を別のことに使うことができます。

小学算数が理解できたら、

中学数学へ進む。

中学数学が理解できたら、

高校数学へ進む。

私は、それでいいと思っています。

むしろ、せっかく受験がないのに、なぜ受験のところで立ち止まるのだろう

と思うのです。

算数と数学は、一本につながっている

小学算数。

中学数学。

高校数学。

学校制度上は、別々に見えます。

でも、数学そのものは切れていません。

分数。

割合。

比。

文字式。

方程式。

関数。

図形。

そして、高校数学。

全部つながっています。

小学6年生までが算数だから、小学6年生まで待つ。

中学生にならなければ、中学数学をやってはいけない。

そんな決まりが数学にあるわけではありません。

理解できているのであれば、学年で止める必要はない。

小学算数から中学数学へ。

中学数学から高校数学へ。

そして、その先の大学受験へ。

一つの道として考えればいい。

「SAPIXは違うんですよね」

以前、私立・国立小に通う子どもの保護者の方から、

「SAPIXは、違うんですよね」と言われたことがあります。

また、別の保護者の方からは、「中学入試や高校入試で鍛えられてきた子たちに、大学受験で負けない学力をつけておきたい」と言われました。

私は、この二つの言葉はつながっていると思っています。

中学受験をしたいわけではない。

でも、中学受験を通して身につくはずだった学力や思考力まで手放したいわけではない。

だからといって、中学受験をする子と同じ勉強をする必要もありません。

だったら、違う戦い方をすればいい。

受験をする子とは、違う道を進めばいい

たとえば小学6年生。

中学受験をする子が、入試算数を徹底的に勉強している。

一方、中学受験をしない子は、中学数学を勉強している。

それでいいのです。

中学生になったら、高校受験をする子が高校入試のための数学を勉強している。

一方、高校受験をしない子は、高校数学へ進んでいる。

どちらが上という話ではありません。

進む道が違うだけです。

そして、その道はいつか再び交わります。

大学受験です。

そのとき、

中学受験をした子。

高校受験をした子。

内部進学してきた子。

さまざまな道を通ってきた子どもたちが、同じ大学入試の問題を解くことになります。

だったら、受験がなかった時間を、アドバンテージに変えておけばいい。

私はそう考えています。

ただし、速ければいいとは思っていません

ここは、私たちがとても大切にしているところです。

先取りというと、「何年生で何年生の内容まで終わった」という話になりがちです。

でも、私たちはそこを競っているわけではありません。

理解できたら、先へ進む。

でも、考えるべき問題なら止まる。

一問に20分かかってもいい。

でも、自分の力で何とかしようとする。

先へ進むことと、深く考えることは、反対ではありません。

むしろ、深く考えながら、先へ進めばいい。

これが、私たちの考える先取りです。

私たちの教室は、先へ進むほど得意になります

そして、ここには赤羽南教室ならではの事情があります。

私たちは、子どもが先へ進むほど、教える側の得意分野に入っていきます。

私は長く、大学受験数学を教えてきました。

中学生も高校生も教えてきました。

ですから、小学生が小学算数を終えて、中学数学へ進むことに違和感はありません。

中学数学が終わって、高校数学へ進むことにも違和感はありません。

むしろ、そこから先は、私たちが長く教えてきた世界です。

だから、小学生の算数を教えるときにも、

「この問題が解けた」ということだけを見ているわけではありません。

中学生になったとき。

高校生になったとき。

大学受験をするとき。

その子に何が必要になるのか。

そこから逆算して、小学生の今を見ています。

言ってしまえば、

大学受験数学から逆算して、小学生を教えている。

これが、私たちの教室です。

なぜ、私立・国立小の子どもが増えたのか

現在、私たちの教室に通う小学生の約4割が、私立・国立小学校の子どもたちです。

最初から、その層を集めようと思っていたわけではありません。

内部進学専門でもありません。

それでも、気がつけば増えていました。

その理由を考えてみると、

「受験をしない。でも、学力は伸ばしたい」

というご家庭の考え方と、

「理解できたら学年に関係なく先へ進む」

という私たちの考え方が、たまたま合っていたのかもしれません。

学校の補習だけでは物足りない。

でも、中学受験塾とも違う。

そして、大学受験ではしっかり戦える学力をつけたい。

その間にある選択肢は、意外と少ないのだと思います。

受験がない時間を、空白にしない

中学受験をしない。

高校受験もしない。

それは、決して学力面で不利だと決まっているわけではありません。

使える時間があります。

その時間を、ただ「受験がない時間」にするのか。

それとも、次の学びへ進む時間にするのか。

私は後者を選びたいと思っています。

小学算数から中学数学へ。

中学数学から高校数学へ。

そして大学受験へ。

その途中で、

考える。

読む。

言葉にする。

粘る。

自分で何とかする。

それを繰り返しながら、先へ進む。

受験をしないことを、学力上の空白にしない。

むしろ、受験がないことを、学力上のアドバンテージに変える。

小学算数。

中学数学。

高校数学。

大学受験。

私たちは、その全部を一本の道として見ています。


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2026.09.13

小学校受験が終わったときというのは、

長い準備期間を経て、進学する小学校も決まり、幼児教室も、ひと区切り。

ご家庭にとっても、ようやく少し落ち着ける時期なのだと思います。

ところが、しばらくすると、こんなことを考え始めるご家庭があります。

「このあと、どうしよう。」

これまで幼児教室で、いろいろなことを学んできた。

七田式などの幼児教育で、言葉や数、記憶、思考力を育ててきたご家庭もあるでしょう。

小学校受験のために、ペーパーだけではなく、巧緻性や行動観察、言葉、考える力を鍛えてきたご家庭もあると思います。

子どもも頑張った。

保護者の方も頑張った。

そして、受験が終わった。

では、その次は、どこへ行けばいいのでしょう。

「中学受験塾」は、少し違う

私立小学校や国立小学校に通う子どもの保護者の方から、以前こんなことを言われたことがあります。

「SAPIXは、違うんですよね」

この言葉が、私はずっと印象に残っています。

もちろん、SAPIXが良いとか悪いとか、そういう話ではありません。

中学受験をするのであれば、中学受験塾という選択肢があります。

中学受験対策をする場合のとても分かりやすい道です。

でも、内部進学を基本に考えていたり、あるいは、一般的な中学受験を予定していない。

そういうご家庭にとっては、

「中学受験塾へ行く」という選択肢が、どうもしっくりこない。

だからといって、何もしなくていいと思っているわけでもない。

ここに、意外と大きな空白があるように思います。

学校の補習をしてほしいわけでもない

では、学校の勉強を見てもらう塾でしょうか。

もちろん、学校の勉強で困っているのであれば、それも一つの選択肢です。

でも、私たちの教室に来られる保護者の方々と話していると、少し違うケースが多いのです。

学校の授業についていけないわけではない。

むしろ、学校の内容だけでは少し物足りない。

中学受験塾ではない。

学校補習でもない。

せっかく幼児期から育ててきた力を、ここで止めない選択肢はないのか。

幼児期に育てたものを、そこで終わらせない

私は、小学校受験のために勉強してきたことは、合格した瞬間に役割を終えるものではないと思っています。

問題文を読む。

条件を整理する。

図を見る。

数を考える。

言葉を理解する。

人の話を聞く。

自分の頭で考える。

分からなくても、もう少しやってみる。

こうした力は、小学校受験だけのために必要なものではありません。

その先の学習にもつながっていきます。

だったら、幼児期に育ててきた力を、小学生になって「学力」へつなげていけばいい。

私はそう考えます。

「受験をしない子」のための勉強があってもいい

中学受験をする子には、中学受験の勉強があります。

では、中学受験をしない子はどうするのでしょう。

私は、中学受験をしない子には、中学受験をしない子の勉強があっていいと思っています。

受験がないから、勉強しない。

ではありません。

受験がないからこそ、受験勉強とは違うことに時間を使える。

たとえば、算数です。

小学1年生の内容が理解できれば、小学2年生へ。

小学2年生が理解できれば、小学3年生へ。

そして、小学算数が理解できたら、

中学数学へ進めばいい。

中学受験をしないのであれば、小学校高学年になったからといって、必ずしも受験算数へ向かう必要はありません。

その時間を使って、数学そのものを先へ進めるという選択肢もあります。

ただ先へ進むだけなら、私たちでなくてもいい

ここは、とても大切なところです。

私たちは、単純な先取りだけを目的にしているわけではありません。

何年生まで終わった。

何学年先へ進んだ。

それだけを競うのであれば、ほかにも方法はたくさんあります。

私たちが大切にしているのは、先へ進むことと、深く考えることを両立させることです。

難しい問題なら、立ち止まる。

分からない言葉があれば、言葉の意味を考える。

そして理解できたら、

また先へ進む。

深く考えながら、先へ進む。

幼児期に育ててきた「考える力」を、算数・数学へつないでいく。

それが、私たちの考えている学びです。

気がつけば、私立・国立小の子どもたちが増えていました

りんご塾赤羽南教室は、もともと私立小専門の教室として始めたわけではありません。

国立小専門でもありません。

ところが現在、私たちの教室に通う小学生の約4割が、私立小学校・国立小学校の子どもたちです。

筑波大学附属小学校。

お茶の水女子大学附属小学校。

雙葉小学校。

早稲田実業学校初等部。

東洋英和女学院小学部。

日本女子大学附属豊明小学校。

ほかにも、さまざまな学校から通ってくれています。

なぜだろう、と考えることがあります。

そして最近、少し分かってきた気がします。

おそらく、「中学受験塾ではない。でも、学校の補習でもない。」

その間にある学びを探しているご家庭が、思っている以上に多いのです。

小学校受験は、ゴールではない

小学校受験が終わったことは、一つの大きな節目です。

でも、子どもの学びは、そこから何年も続きます。

小学校。中学校。高校。

そして、その先。

私は、小学校受験が終わったところで、それまで育ててきたものを、一度リセットする必要はないと思っています。

幼児期に育てた様々な力を、今度は、算数・数学という学問につないでいく。

小学算数から中学数学へ。

中学数学から高校数学へ。

その先の大学受験まで。

私たちは、その学びを一本の道として考えています。

小学校受験が終わったあと、

「次は、どこの塾へ行けばいいのだろう」

と迷うことがあるかもしれません。

でも、本当に最初に考えたいのは、「どこの塾へ行くか」ではなく、「この先、何を学ばせたいのか」なのだと思います。

道は一つではありません。

そして、中学受験をしない子には、中学受験をしない子にしか使えない時間があります。

その時間を、どう使うのか。

小学校受験のあとに始まる教育は、

もしかすると、小学校受験そのものと同じくらい大切なのかもしれません。


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2026.09.12

こんにちは!東木です!

今週、長谷先生が「教育はだいたい理想通りにいかない」ということを書いていました。

読んでいて、「まあ、その通りですね」と思いました、いろいろな意味で(笑)。

教育について文章を書くと、と、いくらでもきれいなことが書けます。

どれも間違っていないと思いますが、実際の授業は、人間対人間です。

しかも相手は子どもたち。

昨日うまくいった方法が、今日も通用するとは限りません。

この子にうまくいった声かけが、別の子にはまったく響かないこともあります。

だから長谷先生の言う通り、教育って「こうすればうまくいく」という方法論だけでは、なかなかどうにもならないんですよね。

それでも、赤羽南にはずっと守っていることがあります

とはいえ、毎回すべてを先生の勘だけで授業しているわけではなくて、赤羽南教室では、開講した頃から長谷先生にずっと言われていて、私たちが守っていることがあります。

とにかく、子どもを笑わせる。

子どもが考えている間は、口を出さない。

本当に無理そうなら、その問題に固執せず問題を変える。

大きく言えば、この三つです。

これは私自身も心がけていますし、講師のみなさんにも徹底してもらっています。

ある程度この三つを守っていれば、普段の授業はだいたいうまくいきます。

問題は、ここからはみ出すケースがあることです(笑)。

「やばいやばい、お母さん来ちゃうよ!」

私も授業を担当することがあります。

そして、ときどき何を言っても、どう声をかけても、問題を変えても、ちょっと笑わせてみても、

今日はどうしてもテキストをやってくれない(笑)

という日があります。

こちらも、「まあ、そういう日もあるよね」と余裕を持っていられればいいのですが、

時計を見ると、

あと30分。

あと20分。

あと10分。

と迫ってくるお迎えの時間。

これはなかなかのプレッシャーです(笑)。

心の中では、「やばいやばい、お母さん来ちゃうよ!鉛筆持ってぇ〜!」となっています(笑)。

これ、私には相当なプレッシャーなようで、しょっちゅう夢に出てきます。

夢の中でも子どもが全然問題をやってくれない。

時計だけがどんどん進む。

もうすぐお迎えが来る。

「お願い!一問でいいから解いてぇ〜!」

ハッ!夢かぁ...(笑)。

でも、お迎えに来るお母さん、お父さんを見ると

そんなふうに毎日バタバタしているのですが、お迎えに来られる保護者のみなさんとお話ししていると、また気持ちが変わります。

お母さん、お父さんが、本当に一生懸命、我が子の将来を考えてらっしゃいます。

その思いがひしひしと伝わってくるからです。

今日できなかった問題ができるようになってほしい。

少しでも算数を好きになってほしい。

考えられる子になってほしい。

将来困らない力をつけてほしい。

それぞれ願いは違うと思います。

でも、大切なお子さんを私たちに預けてくださっている。

そして、その授業時間に期待してくださっている。

そう考えると、私たちは、その期待にきちんと応えたいと思います。

「与えられた授業時間は全力でやれ」

長谷先生から、私たちはいつも言われています。

「自分たちに与えられている授業時間は、全力でやれ」

そして、「一問でも多く解かせてほしいと思っている保護者の期待に、全力で応えろ」

こうして文字にすると......

うち、体育会系ですかね(笑)。

でも、長谷先生の言いたいことはよく分かります。

60分、80分という授業時間は、私たちにとっては毎日の授業の一コマでも、保護者の方にとっては、お金を払い、大切なお子さんを預けてくださっている時間です。

だから、「今日はあまりやる気がなかったので、これくらいで」と私たちが簡単に終わらせてはいけない。

やらないなら、どうしたらやるのか考える。

この問題が無理なら、別の問題を探す。

集中できないなら、いったん笑わせてみる。

それでもダメなら、また別の方法を考える。

その時間にできることは全部やる。

そこは、赤羽南教室がずっと大切にしていることだと思います。

そして、講師のみなさんを見ていて思うこと

私がありがたいなあと思うのは、こういう考え方を講師のみなさんも本当に大切にしてくれていることです。

授業を見ていると、

生徒が難しい問題を解けた瞬間に、先生が一緒になって心から喜んでいる姿をよく見ます。

授業が終わったあと、

「この子の授業、集中力の高い時間にこちらを優先してやってもいいですか?」

など自発的に改善案を相談してくださることもよくあります。

「今日、この話をしたらすごく喜んで話してくれました」

「こういう説明をしたら、今日はすっと理解してくれました」

「この問題はこの順番で出した方がよさそうです」

そんな情報も、しょっちゅう先生同士で共有しています。

「この子には何が合うんだろう?」をみんなで考える。

私たちの教務にも、まだまだ改善しなければならないところはたくさんあると思っています。

それでも、先生たちが授業後に生徒の話をしている姿を見ると、

本当に生徒のために一生懸命な人たちだなぁ、ありがたいなぁと、つくづく思います。

授業だけではありません。

赤羽南教室をもっと盛り上げようと、「教室からのメッセージ」もそれぞれの先生が精力的に書いてくれています。

これも、私はとても嬉しいです。

カリスマ一人では、いい教室はつくれない

長谷先生が以前、「カリスマが一人いても、いいりんご塾の教室はつくれない」ということを言っていました。

これも、毎日教室にいるとよく分かります。

先生にも、いろいろなタイプがいます。

そして、生徒にもいろいろなタイプがいます。

それが大事なんです。

私や長谷先生にはあまり話さない子が、別の先生とは楽しそうにずっとしゃべっていたりする。

逆もあります。

誰か一人が、すべての子どもにとって最高の先生になるなんて、たぶん無理なんですね。

いろいろな先生がいて、いろいろな子どもがいる。

そこで、いろいろな化学反応が起きる。

それが教室なのだと思います。

理想通りにいかないから、みんなで考える

教育は、だいたい理想通りにいかない。

本当にそうだと思います(笑)。

今日うまくいったことが、次週では全然うまくいかない。

笑わせようとして、すべることもあります。

「限界かな?」と思って声をかけたら、「そこはわかってる!」と生徒に怒られることもあります。(笑)

問題を変えたら、そっちも嫌だと言われることもあります。

そして私はまた夢の中で、

「お母さん来ちゃうよ!とりあえずまっすぐ座って〜!」と言っているのでしょう(笑)。

でも、だからこそ一人でやる仕事ではないのかもしれません。

うまくいかなかったら、他の先生の助けも借りる。

別のやり方を学ぶ。

次の授業で試してみる。

またダメなら、また考える。

長谷先生に怒られて、子どもたち相手にへとへとになって、「今日はもうボロボロだ......」と思う日もあります(笑)。

それでも翌週、子どもたちはまた元気に教室へやってきます。

そして保護者のみなさんは、大切なお子さんをまた私たちに預けてくださいます。

だったら私たちも、その期待に応えられるように、また全力でやろう!と思います。

赤羽南教室は、長谷先生一人がつくっている教室でも、私一人がつくっている教室でもありません。

講師のみなさんがいて。

子どもたちがいて。

そして、私たちを信頼してくださる保護者のみなさんがいる。

長谷先生の「教育はだいたい理想通りにいかない(笑)」を読んで、「みんなでつくっている、りんご塾赤羽南教室なんだなあ。」ということを改めて思った今週でした。

......さて。

今日もお迎えの時間までに、一問でも多く解いてもらいましょう(笑)。



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城南コベッツ赤羽南教室
りんご塾赤羽南教室

・りんご塾といえば、東は赤羽!西は滋賀!
・全国で唯一、大学受験まで指導できるりんご塾
・人間的成長なくして学力の向上なし
・語彙力なくして思考なし、思考なくして学力なし


東京都北区赤羽南1-3-7 セキネビル3F
(赤羽駅南改札より徒歩2分)
℡.:03-6903-8030  
Mail: covez_akabaneminami@johnan.co.jp
※電話対応時間:㈫~㈮ 15:30~21:00 / ㈯ 11:30~20:30











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