2026.09.24
私は長く、高校生の大学受験を指導してきました。
その中で、最近よく考えることがあります。
高校生に、「なぜ、その大学のその学部に行きたいの?」と聞いたときのことです。
もちろん、しっかりした理由を持っている生徒もいます。
でも実際には、自分がその大学、その学部を選んだ理由を、自分の言葉できちんと説明できる高校生は、それほど多くありません。
「なんとなく興味があるから」
「楽しそうだから」
「就職に良さそうだから」
「親に勧められたから」
「学校の先生に合っていると言われたから」
そんな答えが返ってくることもあります。
私は、そこでさらに聞きます。
「何に興味があるの?」
「その学部では、具体的に何を勉強するの?」
「同じような学部がある大学と、何が違うの?」
すると、答えられなくなることがあります。
今年、こんなこともありました。
「雰囲気がよかったから、この大学にしました」
ある高校生に、「どうして、この大学にしたの?」と聞きました。
すると、「オープンキャンパスに行ったら、雰囲気がよかったからです」と答えました。
それ自体は、もちろん悪い理由ではありません。
大学は4年間通う場所です。
キャンパスの雰囲気。
学生の様子。
先生との距離。
施設。
通学環境。
実際に行ってみなければ分からないことはたくさんあります。
ですから私は、「そうなんだ。オープンキャンパスは何校くらい行ったの?」と聞きました。
すると、「1校です」と、堂々と答えました。
私は思わず、「1校だけ?」と聞き返しました。
そして、
「何校か行って、その中で『ここが一番雰囲気がよかった』なら分かるよ。でも1校しか見ていないのに、『雰囲気がよかったからここに決めた』って、選び方としてちょっとおかしくない?」
と言いました。
ものすごく嫌な顔をされました(笑)。
でも私は、その大学が悪いと言っているわけではありません。
その大学に行くな、と言っているわけでもありません。
自分で選ぶなら、ちゃんと選んでほしい。
ただ、それだけなんです。
何と比べて「よかった」のか
この話で私が気になったのは、「雰囲気で大学を決めたこと」ではありません。
比較する対象がないことです。
1校しか見ていない。
それなのに、「雰囲気がよかった」と言う。
では、何と比較して「よかった」と判断したのでしょう。
もちろん、自分が想像していた大学のイメージと比較したのかもしれません。
それでも、その大学が自分に合っているかを判断するのであれば、違う大学も見てみた方がいい。
2校見れば、違いが分かります。
3校、4校と見れば、
「私はこういう大学が好きなんだ」という自分の基準も、少しずつ見えてきます。
比較することで初めて、自分が何を大切にしているのかも分かってくるのです。
「自分で決めた」だけで、主体的なのだろうか
今の教育では、
「本人の意思を尊重する」
「自分で進路を決める」
「主体的に進路を選択する」
ということが、とても大切にされています。
私も、それには賛成です。
親や先生が大学を決めてしまうより、自分の人生なのだから、自分で決めた方がいい。
でも私は、「本人が自分で決めた」という事実だけで、それを主体的な選択と呼んでいいのだろうかと思うことがあります。
1校しか知らない。
他の大学を調べていない。
その学部で何を学ぶのかも、よく分かっていない。
卒業後にどんな道があるのかも知らない。
それでも、
「本人が行きたいと言っているから」
という理由で、その決定を尊重する。
それは、本当に本人の主体性を大切にしていることになるのでしょうか。
知らないものは、選べない
私は、ここがとても重要だと思っています。
知らないものは、選べません。
知らない大学は、志望校になりません。
知らない学問は、学びたい学問になりません。
知らない職業は、将来の夢にはなりません。
知らない生き方は、自分の人生の選択肢には入りません。
選択肢が三つしか見えていない人に、
「好きなものを自由に選んでいいよ」
と言えば、確かに本人が選んだことにはなります。
でも、本当はその外側に100の選択肢がある。
本人は、その存在すら知らない。
それを、「主体的に選択した」と言っていいのでしょうか。
高校生は、本当に大学を「選べる」のか
今、多くの高校では、
「大学で何を学びたいのか」
「将来、何をしたいのか」
「どんな仕事に就きたいのか」
を早い段階から考えさせます。
もちろん、それ自体は悪いことではありません。
ただ私は、高校生を長く見てきて思います。
その問いに答えるだけの材料を、私たち大人は彼らに渡してきたのでしょうか。
大学にどんな学問があるのか。
経済学と経営学は何が違うのか。
理学部と工学部では何が違うのか。
文学部では何を研究するのか。
大学によって同じ名前の学部でも何が違うのか。
そして、その先にどんな世界があるのか。
それをほとんど知らない高校生に、「あなたは何を学びたいですか?」と聞く。
考えてみれば、ずいぶん難しい質問です。
就職だって同じです
これは大学選びだけの話ではありません。
大学生になれば、今度は就職活動が始まります。
「どんな仕事がしたいですか?」
「どんな会社で働きたいですか?」
「あなたのキャリアプランは?」
と聞かれます。
でも、22歳の若者が、世の中の仕事をどれだけ知っているのでしょう。
営業とは何をする仕事なのか。
経理とは何なのか。
商品開発。
研究。
設計。
生産管理。
物流。
人事。
広報。
IT。
公務員。
起業。
大企業で働くこと。
中小企業で働くこと。
そもそも会社がどうやって利益を出し、その利益から人を雇い、給与を払い、組織を維持しているのか。
社会に出たことのない若者には、知らないことの方が圧倒的に多い。
その状態で、「自分らしい仕事を主体的に選びましょう」と言われても、簡単ではありません。
「やりたいことがない」のは、本人だけの問題なのか
高校生や大学生が、「やりたいことが分かりません」と言うことがあります。
すると大人は、「もっと自分の将来を真剣に考えなさい」と言いたくなります。
でも最近、私は少し違う見方もしています。
もしかすると、考えるための材料が足りないのではないか。
やりたいことがないのではなく、やりたいと思えるほど、世界を知らない。
そういうこともあるのではないでしょうか。
だとすれば、
「自分で決めなさい」
と言う前に、大人がやらなければならないことがあります。
選択には、「知る」が先にある
私は、選択には順番があると思っています。
知る。
経験する。
比べる。
考える。
迷う。
そして、選ぶ。
最初から「選ぶ」ではありません。
ところが、「主体性」という言葉を大切にしすぎるあまり、
大人が何かを勧めること、
大人が知らない世界を見せること、
「それ、本当に考えた?」と問い返すことまで、
子どもの主体性を邪魔することのように扱われることがあります。
私は違うと思っています。
子どもがまだ知らない世界を見せること。
それは、大人の大切な役割です。
「なぜ?」と聞くことは、選択を否定することではない
私は高校生に、「なぜ、その大学なの?」と聞きます。
「なぜ、その学部なの?」
「他の大学は調べた?」
「同じことを学べる大学はないの?」
「卒業したら何をしたいの?」
と聞きます。
別に、困らせたいわけではありません。
本人の選択を否定したいわけでもありません。
むしろ逆です。
その選択を、本当に本人のものにしてほしい。
だから聞くのです。
自分で決めるということは、「これにしました」と言うことではありません。
少なくとも私は、「なぜ、それを選んだのか」を自分の言葉で説明できるところまで考えてほしいと思っています。
そして、この話は幼児教育につながっています
ここまで大学や就職の話を書いてきました。
でも、これは高校生になって突然始まる話ではないと思っています。
自分で情報を集めて、考える。
違いを見つけ、比較する。
分からなければ調べ、自分の考えを言葉にする。
うまくいかなければ、もう一度やり方から考える。
こうした力は、18歳になった瞬間に突然身につくものではありません。
幼い頃から少しずつ育てていくものです。
だから、りんご塾赤羽南教室では、
「自主性を大切にする=何でも子どもに自由に選ばせる」とは考えていません。
「やりたくない」も、そのまま答えにはしない
子どもが、「やりたくない」と言うことがあります。
もちろん、その気持ちは受け止めます。
でも、「本人がやりたくないと言っていますから、やらせません」とは、必ずしも考えません。
なぜなら、その子はまだ、やった先に何があるのかを知らないからです。
難しそうだから嫌なのかもしれない。
初めてだから不安なのかもしれない。
できない自分を見たくないのかもしれない。
単に面倒なのかもしれない。
それでもやってみたら、「あれ、面白い」となることがあります。
昨日できなかったことができたとき、ものすごく嬉しそうな顔をすることがあります。
だから、ときには大人が、「これはやってみよう」と言うことも必要です。
それは、主体性を奪うことではないと思っています。
将来、自分で選べるものを増やしている。
私はそう考えています。
赤羽南で考える「自主性」
私たちが考える自主性は、「好きなことを自由にやること」ではありません。
先生に言われなくても、自分から始める。
次に何をするのか、自分で考える。
分からない問題でも、すぐに「教えて」と言わず、まず自分でなんとかしてみる。
使ったものを片づける。
約束を守る。
やると決めたところまではやる。
そうした、「自分から動ける力」を自主性だと考えています。
赤羽南で考える「主体性」
そして主体性は、自主性のその先にあると思っています。
何をするべきなのかを考える。
なぜそうするのかを考える。
いくつかの方法を比べる。
自分で選ぶ。
うまくいかなければ修正する。
そして、自分が選んだことに責任を持つ。
だから私たちは、難しい問題が出てきたとき、すぐに解き方を教えません。
「分からない」と言われたら、
「何が分からない?」
「問題には何て書いてある?」
「今までやったことで使えそうなものはない?」
と問い返します。
考える仕事を、子どもから奪わないためです。
ただし、放っておくわけではありません。
見て、必要なら手を貸します。
そして、自分でできることは、少しずつ本人に返していきます。
私は、
他律から自律へ。
自律から自主性へ。
自主性から主体性へ。
という流れがあると思っています。
「選ばせる」前に、「選べる人」を育てる
18歳になったとき、「どの大学に行く?」と聞かれる。
22歳になったとき、「どんな仕事をする?」と聞かれる。
その先にも、人生には何度も大きな選択があります。
そのときに、
「なんとなく」
「みんながそうしているから」
「最初に見たところがよかったから」ではなく、
いろいろなものを知り、
比べ、
考え、
迷い、
最後に、
「私は、これを選ぶ」
と言える人になってほしい。
そのために必要なのは、幼い頃から何でも本人に選ばせることではないと、私は思っています。
たくさんの言葉を知る。
たくさんのことを経験する。
知らない世界に触れる。
難しいことにも挑戦する。
人の話を聞く。
比較する。
自分の考えを言葉にする。
そして、少しずつ自分で決める範囲を広げていく。
「選ばせる」前に、「選べる人」を育てる。






