城南コベッツ赤羽南教室

Tel:03-6903-8030

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  • りんご塾(算数オリンピック対策)
  • atama+個別指導
  • 総合型・学校推薦型選抜対策(推薦ラボ)

2026.09.18

前回は、ラグビー部員たちが本気になっている姿を見て、こんなことを書きました。

人は、何のためなら、ここまで本気になれるのか。

そして、人が本気になる教室とは、どんな場所なのだろう。

https://www.covez.jp/school/kanto/tokyo/kita/kitaakabaneekimae/message/entry_46886.html

あの記事を書いたあと、ふと、50年近く前のことを思い出しました。

そういえば、私自身が中学生の頃、そんな教室に通っていた。

名前は、多磨学院。

東府中の駅前と、府中駅のけやき並木沿いに教室がありました。

今考えても、かなり変わった塾でした。

いや、「昔はそういう塾もあった」という話ではありません。

当時から、かなり異質な塾として知られていました。

そして思い出していくうちに、私は少し不思議な感覚になりました。

今、自分がどんな教室を作りたいと思っているのか。

その原点の一つが、50年近く前のあの教室にあったのかもしれない。

そんなことに、今さら気づいたからです。

掃除をしていたおじさん

多磨学院では、入塾するときに必ず面接がありました。

生徒だけではありません。

保護者も一緒です。

そして、その面接で入塾を断られることも珍しくありませんでした。

私が入塾面接を受けた日のことを、今でも覚えています。

親と一緒に教室で待っていると、あまりきれいな格好をしていないおじさんが入ってきました。

そして、私たちの横で掃除を始めました。

私も親も、その人に普通に挨拶をしました。

その人が誰なのかは知りません。

私は当然、教室の掃除をしている人だと思っていました。

やがて面接の時間になりました。

そこへ入ってきた人を見て驚きました。

さっき掃除をしていたおじさんでした。

その人が、多磨学院の経営者だったのです。

そして面接の最後に言われました。

私と親が、掃除をしていた自分にきちんと挨拶をした。

だから、

「うちで面倒を見る。」

正確な言葉までは、50年近く前のことなので覚えていません。

でも、その意味のことを言われたのは、はっきり覚えています。

今考えると、すごい入塾面接です。

経営者だと分かっている人に挨拶するのとは違います。

掃除をしている、名前も知らないおじさん。

その人にどう接するかを見ていた。

それが意図的なものだったのか、たまたま掃除をしていただけなのかは分かりません。

ただ、多磨学院が成績だけを見て生徒を預かる塾ではなかったことは、間違いないと思います。

最初の授業で、いきなり怒鳴られた

私は中学2年生から高校1年生まで、多磨学院に通いました。

最初の授業だったと思います。

何気なく頬杖をついていたら、

「肘をつくんじゃない!」

いきなり先生に怒鳴られました。

椅子に座って足を前に投げ出していたときにも怒鳴られました。

問題を間違えたからではありません。

宿題を忘れたからでもありません。

授業を受ける姿勢を叱られたのです。

学ぶなら、学ぶ姿勢をとれ。

やるなら、本気でやれ。

そんな空気が教室全体にありました。

突然、教室の電気が消える

さらにすごいことがありました。

授業中、先生が、

「今日はこいつら、やる気がない」

と判断すると、突然、教室の電気が消えます。

真っ暗になります。

そして先生が話し始める。

最初は静かです。

「お前たち、なんでやらないんだ」

と、語りかけるように始まる。

ところが、だんだん熱が入ってくる。

声が大きくなる。

最後は叫ぶような説教になる。

ときには、先生自身が泣いていました。

そして説教が終わると、みんなでやるものがありました。

ファイトコールです。

「KK、ファイト!」

「オー!」

「ファイト!」

「オー!」

教室にいる生徒全員で叫びます。

50年近く経って文章にしてみても、

やっぱり、とんでもない塾です(笑)。

KKは「開成・筑駒」

クラスは学力別に6クラスほどに分かれていました。

一番上が、

KK。

開成・筑駒です。

その下に、

KW1、KW2......

と続きます。

KWは、

慶應・早稲田。

クラスの名前そのものが、目標校でした。

英語の長田(おさだ)先生。

数学の長田(ながた)先生。

今でも名前を覚えています。

授業は、

ジェットコースターのようでした。

ものすごいスピードと熱量で進んでいく。

ぼんやり座っていることなど許されません。

私は当時、多摩市立和田中学校に通っていました。

学年上位5人ほどは、みんな多磨学院に通っていました。

近所の塾ではありません。

生徒の中には、片道1時間ほどかけて通ってくる者もいました。

それでも通っていました。

午前は代ゼミ、午後は多磨学院

講習の時期になると、さらに強烈でした。

午前中は全員で代々木へ行き、代々木ゼミナールで授業を受ける。

終わったら府中へ戻り、

午後から多磨学院でまた授業です。

中学生です(笑)。

今なら、

「そこまでやるのか」

と思われるかもしれません。

でも、私たちはやっていました。

シュラフと鍋を持っていく合宿

合宿も頻繁にありました。

あの入塾面接で掃除をしていた経営者が、自分でマイクロバスを運転して、私たちを山荘まで連れていきます。

そのバスの中では、みんなで歌います。

普通に歌うのではありません。

絶叫です(笑)。

山荘に着く頃には、みんな声が枯れている。

山荘には布団もありません。

だから、

シュラフ持参。

鍋も持っていきました。

固形燃料も持っていく。

近くの川から水を汲んできて、その水を沸かし、インスタントラーメンを作って食べました。

冬はさらにすごい。

雪が積もっていれば、

自分たちで雪かきをしながら山荘まで進みます。

何のためにここまでやっていたのか(笑)。

でも不思議なことに、

50年近く経った今でも、川の水で作ったあのインスタントラーメンを覚えています。

私立高校に、落ちまくった

そんな私にも、高校受験がやってきました。

ところが、

私立高校に落ちまくりました。

一校、また一校。

不合格が続きました。

中学生ですから、当然こたえます。

そして、ある私立高校の後期試験を受けに行った日のことです。

試験会場へ向かって歩いていく。

すると、

校門の前に人がいました。

見覚えのある顔です。

一人ではありません。

多磨学院の先生たちが、全員そこにいました。

あれほど怖かった先生たちです。

頬杖をつけば怒鳴る。

足を投げ出せば怒鳴る。

やる気がないと電気を消して説教する。

その先生たちが、

私たちの受験のために、全員で校門の前に立っていました。

あのときは、

涙が出そうになりました。

なぜ、みんなあの塾についていったのか

今になって思います。

なぜ、あれほど厳しい塾に生徒が集まったのか。

なぜ、1時間もかけて通ったのか。

なぜ、怒鳴られても、説教されても、みんなついていったのか。

たぶん、

分かっていたんです。

先生たちが、本気だったことを。

怖かった。

厳しかった。

無茶苦茶なこともたくさんあった。

でも、

自分たちを本気で見てくれている。

それを、生徒は感じていたのだと思います。

「本気でやれ」と言っている大人たち自身が、

本気だったのです。

「よくやったな」

その後、私は都立国立高校に合格しました。

合格したことを伝えたときのことも覚えています。

普段はものすごく怖い先生たちが、みんな嬉しそうでした。

そして私のところへ来て、

「よくやったな。」

と声をかけてくれました。

怖い先生に褒められる。

あれは嬉しかった。

今でも覚えています。

高校数学では、解き方を教えてくれなかった

多磨学院は、基本的には高校入試で卒業する塾でした。

ただし数学だけは、卒業生に限って高校生も受け入れていました。

私は国立高校に進学したあとも、高校1年生の間、多磨学院で数学を習いました。

そこでの数学は、中学時代とはまた違う意味で強烈でした。

簡単には、問題の解き方を教えてくれないのです。

「この問題は、この公式を使って、こう解けばいい」

そんな授業ではありませんでした。

まず、自分で考える。

分からなくても考える。

いろいろ試す。

間違える。

また考える。

とにかく、考えさせる塾でした。

でも、

「教えてくれない塾」

ではありません。

ここが、とても大切なところです。

自分なりにしっかり考えて、

「ここまでは分かった。でも、ここから先がどうしても分からない」

と質問に行く。

そうすると、

先生は、とことん付き合ってくれました。

一つ質問する。

そこからまた疑問が出る。

もう一つ聞く。

それでも遅い時間まで、ずっと付き合ってくれる。

考えずに答えだけを聞こうとすれば、簡単には教えてくれない。

でも、

本気で考えた生徒の質問からは、絶対に逃げない。

そんな先生たちでした。

国立高校で、数学だけは上位に入れた

国立高校に入れば、周りには勉強のできる生徒がたくさんいました。

その中で私は、

数学だけは上位に入ることができました。

これは間違いなく、

多磨学院で数学を学んだおかげだと思っています。

たくさん問題を解いたから、というだけではありません。

私はあそこで、

「分からなければ、自分でなんとかする」

ということを身につけさせてもらった。

問題を見て、

すぐに解き方を教えてもらうのではない。

何が分かっているのか。

何を使えそうなのか。

どこから攻めればいいのか。

自分で考える。

つまり私は、

数学の問題の解き方ではなく、

数学の考え方を教えてもらったのだと思います。

50年後、自分も同じことをやっている

そして今回、多磨学院のことを書きながら、

自分でも少し驚きました。

今、私は幼児や小学生を指導するとき、

「教えすぎない」

ということを、とても大切にしています。

分からない。

だから先生を見る。

先生がすぐヒントを出す。

また分からない。

また先生を見る。

そんな授業にはしたくありません。

まず、自分でなんとかする。

間違えてもいい。

遠回りしてもいい。

簡単に諦めない。

考える。

それでも分からなかったら、一緒に考える。

私はずっと、

大学受験まで数学を教えてきた経験から、こういう指導をするようになったのだと思っていました。

もちろん、それもあるでしょう。

でも今回、

「あれ?」

と思いました。

私自身が、中学生、高校生の頃に、

それをやってもらっていたのです。

考える前には、簡単に教えない。

でも、

考えた後には、とことん付き合う。

50年近く前に多磨学院で教わったことが、

自分でも気づかないまま、

今の教室に残っているのかもしれません。

本当の「熱血」とは何だったのか

多磨学院を思い出すと、派手な場面がたくさんあります。

電気を消しての説教。

先生の涙。

ファイトコール。

バスの中での大合唱。

シュラフ。

雪かき。

川の水で作ったラーメン。

でも50年近く経って考えると、

多磨学院の先生たちの「本気」は、

そこだけにあったのではないように思います。

入塾のときには、

人に挨拶ができるかを見ていた。

生徒が本気で考えて質問に来たら、

遅くまで、とことん付き合った。

高校受験で苦しんでいるときには、

先生全員で受験校の校門まで来た。

合格したら、

あれほど怖かった先生たちが、

「よくやったな」

と本気で喜んだ。

もしかすると、

本当の「熱血」とは、

大声を出すことではないのかもしれません。

子どもに本気を求めるなら、大人が先に本気であること。

そして、

子どもが本気になったとき、教師も最後まで本気で付き合うこと。

今の私は、そんなふうに思います。

50年経っても、残っているもの

考えてみると、不思議です。

多磨学院で使っていた教材の内容は、ほとんど覚えていません。

どんな問題を解いたのかも、ほとんど覚えていない。

でも、

掃除をしていたおじさんに挨拶したことは覚えている。

その人が経営者だったと知って驚いたことも。

頬杖をついて怒鳴られたことも。

突然、教室が暗くなったことも。

先生が泣きながら話していたことも。

「KK、ファイト!」

「オー!」

と叫んだことも。

バスの中で声が枯れるまで歌ったことも。

シュラフで寝たことも。

雪をかきながら山荘へ向かったことも。

川の水で作ったラーメンも。

遅い時間まで数学の質問に付き合ってくれたことも。

そして何より、

受験校の校門の前に、先生たち全員が立っていた光景を覚えています。

50年近く経っても、消えません。

昔の教育に戻りたいわけではない

ここは、誤解のないように書いておきたいと思います。

私は、多磨学院を再現したいわけではありません。

昔の教育の方が良かった、と言いたいわけでもありません。

怒鳴ればいいとは思わない。

暗闇で説教すればいいとも思わない。

雪山を雪かきさせれば根性がつく、と言いたいわけでもない(笑)。

時代は変わりました。

子どもとの関わり方も変わりました。

変わって良かったことも、たくさんあります。

ただ、変えてはいけないものまで、一緒に手放してはいないだろうか。

最近、そんなことを考えます。

教育は、サービスなのだろうか

今の塾では、

分かりやすく教える。

褒める。

子どもに合わせる。

保護者の要望に応える。

もちろん、どれも大切です。

私自身も大切にしています。

でも教育が、それだけになってしまったらどうでしょう。

先生はサービスを提供する人。

生徒はサービスを受ける人。

そんな関係だけで、

人は本気になれるのでしょうか。

私は少し違うと思っています。

先生も本気になる。

生徒も本気になる。

ときにはぶつかる。

簡単にできないことから逃げない。

一緒に喜ぶ。

悔しがる。

そして、

「先生は、本気で自分を見ている」

と子どもが感じる。

教育には、そういうものが必要なのではないでしょうか。

「人間的成長なくして学力の向上なし」

私は長い間、

「人間的成長なくして学力の向上なし」

と言ってきました。

自分で考える。

約束を守る。

簡単に諦めない。

人の話を聞く。

挨拶をする。

周りの人を大切にする。

そして、

何かに本気になる。

なぜ自分が、こういうことを教育の中でこれほど大切にしているのか。

もちろん、これまで教えてきた何千人もの生徒たちから学んだことが一番大きいと思っています。

でも今になって考えると、

そのずっと奥の方に、

中学生だった私が、多磨学院で見た先生たちの姿も残っているのかもしれません。

そして高校生だった私が、

答えを教えてもらうのではなく、自分で考え続けた時間も。

人が本気になる教室

私は今、幼児や小学生を教えています。

50年前とは、まったく違う教室です。

ファイトコールもしません(笑)。

電気を消して説教もしません。

それでも、

作りたい教室があります。

先生が、本気で子どもを見る。

子どもも、本気になる。

すぐには教えない。

自分で考える。

簡単に諦めない。

それでも分からなくて、本気で聞きに来たら、

今度は先生が、本気で付き合う。

隣の子の頑張りが、自分にも伝わる。

難しい問題が解けなくて悔しい。

それでも考える。

できたら、本気で嬉しい。

友達ができたら、一緒に喜ぶ。

そして教室に入った瞬間、

「ここに来たら、やる。」

そんな空気がある。

私は、そんな教室を作りたい。

50年近く前。

中学生だった私は、そんなことを考えて多磨学院に通っていたわけではありません。

怒られて、

勉強して、

歌って、

笑って、

声を枯らして、

必死に高校受験をしていただけです。

でも50年近く経った今でも、

受験校の校門に立っていた先生たちの姿を覚えています。

遅くまで数学の質問に付き合ってくれた先生の姿を覚えています。

あの人たちは、

本気だった。

だから私たちも、

本気になれたのだと思います。

人は、本気の人間がいる場所で、本気になる。

そして教育とは、

知識を教えることだけではなく、

人が本気になれる場所をつくることなのかもしれません。


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2026.09.17

先日、ある動画を見ました。

https://www.instagram.com/reel/DWKPz9mk9pu/?stkn=MTdoc20xaWZzbzRscQ==

そこに映っていたのは、ラグビー部員たちが一つのことに本気になっている姿でした。

声を出す。

仲間を励ます。

自分も必死になる。

誰かに言われたからやっている、という感じではありません。

そこにいる全員が、その瞬間に入り込んでいる。

見ているうちに、私は一つのことを考えました。

人は、何のためなら、ここまで本気になれるのか。

「頑張りなさい」で、人は本気になるのか

教育の現場では、よく、

「もっと頑張ろう」

「やればできる」

「最後まで諦めない」

という言葉を使います。

私も使います。

でも、それだけで人が本気になるのなら、教育はそれほど難しくありません。

「頑張れ」と言われたから頑張る。

「集中しろ」と言われたから集中する。

そんなに簡単ではない。

本気というものは、

外から命令されて生まれるものではない

のだと思います。

では、何が人を本気にさせるのでしょうか。

一人では、ここまで熱くならない

動画を見ながら感じたのは、

人は、一人ではなかなかここまで熱くならない

ということでした。

仲間がいる。

隣で誰かが本気になっている。

声を出している。

悔しがっている。

喜んでいる。

それを見ているうちに、自分も熱くなる。

誰かの本気が、別の誰かに伝わっていく。

そして気づけば、

集団全体が本気になっている。

これは、勉強でも同じだと思います。

難しい問題を前に、子どもたちが笑う

りんご塾赤羽南教室でも、ときどき不思議な光景があります。

難しい問題を出す。

普通なら、

「えー、難しい」

「分からない」

となってもおかしくありません。

ところが、

難しい問題を見て、

笑っている子どもたちがいます。

もちろん、簡単だから笑っているのではありません。

むしろ逆です。

「なんだこれ」

「どうやるんだ」

と面白くなっている。

隣の子も考えている。

誰かが何かに気づく。

「あっ!」

という声が出る。

すると、それを見た別の子もまた考え始める。

私は、こういう瞬間が好きです。

先生が、

「集中しなさい」

と言わなくても、

子どもたちが勝手に集中している。

勉強させられているのではなく、自分たちで勉強を始めている。

そんな瞬間です。

本気は、伝染する

私は長い間、教育の仕事をしてきました。

その中で感じることがあります。

本気は、伝染します。

逆もあります。

先生が、

「まあ、このくらいでいいか」

と思っていれば、その空気は子どもに伝わります。

先生が時計ばかり見ていれば、それも伝わる。

「授業時間が終われば自分の仕事も終わり」

そんな気持ちも、おそらく子どもには分かります。

逆に、

先生が本気で考えている。

本気で悔しがっている。

本気で喜んでいる。

そうすると、不思議と子どもも変わります。

だから私は、

子どもに本気を求める前に、

大人の側が本気なのか

ということを考えなければならないと思っています。

本気とは、大声を出すことではない

ここで言う「本気」は、

大声を出すことではありません。

厳しくすることでもありません。

長時間勉強させることでもない。

目の前の子どもを、

本当に見ているか。

それだと思います。

この子は今、何を考えているのか。

なぜ手が止まったのか。

分からないのか。

考えているのか。

諦めようとしているのか。

あと30秒待った方がいいのか。

それとも、今は一言だけヒントを出すべきなのか。

一人ひとりを本気で見ようとすれば、教育は簡単ではありません。

マニュアル通りにはいかない。

昨日うまくいった方法が、今日の子には通用しないこともあります。

だから面白いのだと思います。

「できた」より、その前にあるもの

もちろん、塾ですから学力は大切です。

算数ができるようになる。

成績が上がる。

難しい問題が解ける。

それは当然、目指します。

でも私は、

「できた」

という結果だけではなく、

そこへ行くまでに、

どれだけ本気で考えたのか

を大切にしたいと思っています。

分からない。

考える。

間違える。

もう一度考える。

それでも分からない。

また考える。

そして、ある瞬間、

「あっ!」

と気づく。

その経験は、

正解を一つ手に入れることより、ずっと大きなものを子どもの中に残すことがあります。

人が本気になる教室

私は、

静かで整然としている教室だけが、良い教室だとは思っていません。

もちろん、騒がしければいいという意味でもありません。

私が作りたいのは、

人が本気になる教室です。

難しい問題を前に、

子どもが本気で考える。

隣の子も本気になる。

先生も本気になる。

誰かができたら、本気で喜ぶ。

できなければ、本気で悔しがる。

そして、

「もう一回やる」

と言う。

そんな教室です。

子どもたちが大人になったとき、

教室で解いた一つ一つの問題を覚えているとは思いません。

でも、

何かに本気になった時間は、残る。

私はそう思っています。

人は、何のためなら、ここまで本気になれるのか。

まだ、私にも完全な答えはありません。

でも一つだけ、確かなことがあります。

本気は、一人では生まれにくい。

誰かの本気が、

誰かの本気を生む。

だから私たち大人が、

まず本気で子どもたちと向き合う。

そこから、

人が本気になる教室

は始まるのだと思います。



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2026.09.16

最近、幼児や小学校低学年の子どもたちを指導する中で、改めて考えていることがあります。

日常会話としての日本語は、問題なく話せる。

こちらの話も聞けるし、自分の気持ちも伝えられる。

けれども、日本語の文章を読み、意味をつかみ、そこから考えることには、大きな負担を感じている。

そのような子どもが、確かにいます。

特に最近、幼稚園をインターナショナルスクールに通わせている、あるいは通わせていたご家庭から、日本語についてのご相談をいただくことが重なりました。

そこで今回は、英語教育の是非ではなく、

「日本語で学ぶ力」について、教室で感じていること

を書いてみたいと思います。

英語を学ぶことを否定したいわけではありません

最初に、はっきり書いておきたいことがあります。

私は、幼児期から英語に触れることや、インターナショナルスクールを選択することを否定したいわけではありません。

英語の音に自然に触れること。

英語で人と関わること。

異なる文化や考え方に出会うこと。

幼い頃から英語を身近に感じられることには、さまざまな価値があると思います。

また、どのような教育環境を選ぶかは、ご家庭ごとに事情も考え方も違います。

保護者の方は皆、その時点で子どもの将来を真剣に考え、よりよいと思う環境を選んでいます。

ですから、過去の選択が正しかった、間違っていたという話をしたいわけではありません。

ただ、実際に子どもたちを指導していると、英語力とは別に、確認しておかなければならないことがあると感じています。

普通に話せるから、日本語に問題はないのか

家庭では、普通に日本語を話している。

親子の会話も成立している。

そのため、保護者の方から見れば、日本語に大きな問題があるようには見えないことがあります。

しかし、日常生活で使う日本語と、学習に必要な日本語は同じではありません。

算数の文章題では、

「どちらが、いくつ多いのか」

「全部の中から、何を取り除いたのか」

「同じ数ずつ分けるとは、どういうことか」

「何と何を比べているのか」

といった言葉の関係を正確に読み取らなければなりません。

文章を読んで、場面を頭の中に描く。

必要な情報を整理する。

数量の関係をつかむ。

そして、ようやく式を考える。

算数の文章題を解くためには、計算力より前に、これだけの日本語の処理が必要なのです。

算数ができないのではなく、算数までたどり着けない

教室で問題文を読むように伝えると、読むこと自体を避けようとする子がいます。

文章を最後まで読まず、書かれている数字だけを拾う。

足し算か引き算かを、言葉の一部だけで判断しようとする。

読んではいるけれど、何が起きているのかを尋ねると説明できない。

ところが、同じ問題を絵や積み木で示すと、すぐに理解できることがあります。

これは、算数を考える力がないということではありません。

文章から場面をつくるところで止まっているため、持っている思考力を使う段階までたどり着けていないのです。

私は、この状態を単に、

「文章題が苦手」

「まだ幼いから仕方がない」

で終わらせてはいけないと思っています。

日本語で書かれた問題の意味が分からなければ、算数だけでなく、やがて国語、理科、社会でも同じところにつまずく可能性があるからです。

日本で生活していれば、日本語は自然に身につくのか

両親が日本人で、日本で生活し、家庭では日本語を使っている。

それなら、日本語は自然に身につく。

そう考えるのは、決して不自然なことではありません。

実際、日常会話としての日本語は、多くの場合、生活の中で身についていきます。

しかし、日本語の文章を読み、内容を理解し、自分の言葉で説明する力まで、すべて自然に身につくとは限りません。

幼児期は、園で先生の話を聞いたり、友達と言葉を交わしたり、絵本を読んでもらったりしながら、語彙や表現を急速に増やしていく時期です。

園生活の多くを英語で過ごしていれば、それだけ英語に触れる時間は増えます。

一方で、日本語による説明を聞くこと、日本語の物語に触れること、日本語で複雑な気持ちや出来事を表現することは、意識しなければ少なくなる可能性があります。

これは、誰かが悪いという話ではありません。

英語に触れる時間が増えれば、その分、何かに使う時間が減る。

一日の時間には限りがあるという、ごく自然な話です。

大切なのは、今から何をするか

もし日本語の文章を読むことに負担が見られたとしても、過去の教育環境を後悔する必要はありません。

大切なのは、気づいたときから何をするかです。

難しい国語の問題集を、急いで何冊もやらせる必要はありません。

まずは、日本語の本を一緒に読む。

子どもが一人で読むことを嫌がるなら、読み聞かせでも構いません。

読んだあとにテストのように質問するのではなく、

「どんなお話だった?」

「この子は、どうしてこうしたのかな」

「別の言い方をすると、どういうことだろう」

と、親子で自然に話してみる。

今日あった出来事を、順番に話してもらう。

子どもが使った言葉を、大人が少し別の表現に言い換えて返す。

そうした日々の積み重ねが、日本語で理解し、日本語で考えるための土台になります。

教室でも、算数だけを教えるわけにはいきません

赤羽南教室では、文章題の式だけを教えることはしません。

まず本人に問題文を読んでもらいます。

分からない言葉があれば、その意味を確認します。

何が起きているのか、自分の言葉で説明してもらいます。

必要であれば、絵や積み木を使って場面をつくります。

時間はかかります。

問題を解く枚数だけを考えれば、効率が悪いように見えるかもしれません。

しかし、ここを飛ばして式の立て方だけを覚えても、別の文章になれば、また解けなくなります。

私たちが育てたいのは、数字を見て計算方法を当てる力ではありません。

文章を読み、自分で状況を理解し、考えて答えを出す力です。

英語と日本語を、引き換えにしないために

英語を身につけることは、子どもの世界を広げます。

日本語で深く考えられることは、子どもの学びを支えます。

本来、どちらか一方を否定する必要はありません。

だからこそ、英語が話せているという一面だけで安心せず、

日本語の文章を自分で読めているか。

読んだ内容を理解できているか。

自分の考えや気持ちを、日本語で説明できているか。

そこにも目を向けてほしいと思います。

英語を学んできたことを、後悔する必要はありません。

インターナショナルスクールを選んだことを、責める必要もありません。

ただ、日本語で学ぶときに負担が見えたなら、その事実をそのままにしないことです。

英語を身につけることと、日本語で考えるための土台を育てることを、引き換えにしてはいけない。

子どもたちは、今この瞬間も、驚くほどの速さで成長しています。

だからこそ、大人の選択の正しさを議論するのではなく、目の前の子どもが今どこで困っているのかを見つめたい。

そして、英語も日本語も、その子が自分の世界を広げ、深く考えるための力になるように、一緒に育てていきたいと思っています。


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ブーーーーーーーン!!!





2026.09.15

こんにちは!東木です!

最近、「教室からのメッセージ」をご覧になっている方は、もしかするとお気づきかもしれません。

長谷先生が、猛烈な勢いでブログを書いています(笑)。

教育のこと。

子どもたちのこと。

保護者の方とのこと。

教室で起きたこと。

昔の経験から考えたこと。

さらには仕事のことや人生のことまで(笑)。

とにかく、次から次へと文章が出てきます。

でも、長谷先生を昔から知っている私からすると、「急にどうしたんだろう?」という感じは、まったくありません。

言いたいことがものすごくたくさんある人なのは、前から知っていました(笑)。

とにかく、話し始めると止まりません

長谷先生の昔話を聞いたり、教育や仕事について話したりしていると、本当に話が終わりません。

一つの話から、「あ、今の話で思い出したんだけど」と別の話が始まり、

そこからまた、「さっきの話って、俺はこう思うんだけどね」と次の話が始まる。

そして教育の話から仕事の話になり、仕事の話から人生の話になる(笑)。

もうお決まりの流れです。

気がつけば、とんでもない時間になっていることがあります。

以前、すっかり夜が遅くなってしまって、長谷先生の車で家まで送ってもらったことがありました。

家の前に着いたので、

「では、お疲れさまでした!」

......となるはずなのですが。

そこからまた話が始まる(笑)。

車を降りるだけなのに、なかなか降りられない。

話して、話して、また別の話になって。

気がついたら、

空が白くなっていました。

しかも、一度ではありません(笑)。

こうして書いてみると、ちょっと引くレベルかもしれません......(笑)。

でも、それくらい長谷先生は、何かについて語り始めると止まらない人です。

ところが、文章は書けませんでした(笑)

これだけ話せるのだから、文章もたくさん書けそうなものです。

ところが長谷先生は、以前から、「俺は文章が書けない」と言い張っていました。

実際、キーボードに向かって文章を書き始めると、

一行。

二行。

......。

止まる(笑)。

さっきまで何時間でもしゃべっていた人が、文字にしようとすると突然何も出てこなくなる。

そして、「やっぱり無理だ」と諦める(笑)。

ですから以前は、長谷先生が話したことを私が聞いて、

「つまり、こういうことですか?」

と確認しながら、私が文章にすることもよくありました。

長谷先生がしゃべる。
私が書く。

そんな分業です(笑)。

それを変えたのがAIでした

ところが、ここ最近になって状況が大きく変わりました。

AIです。

長谷先生の場合、「文章を書く」のは苦手でも、相手に向かって自分の考えを話すことなら、いくらでもできます。

AIと会話しながら、

「俺はこう思うんだけど」

「いや、そういうことじゃなくて」

「もっとこういう意味なんだよ」

と話していく。

すると、自分がずっと考えてきたことが文章になっていく。

これが相当うれしかったようです(笑)。

たぶん、「これだ!」という感じだったのでしょう。

最近では、AIと話していたら朝になっていたということも珍しくないそうです。

......。

昔は私が朝まで聞いていました。

今はAIが朝まで聞いています。

AIよ、本当にありがとう(笑)。

でも、ただ話したいわけではない

ここまで書くと、「長谷先生って、結局、自分の話を誰かに聞いてほしい人なのでは?」

と思われそうなので(笑)、一応ちゃんと書いておきます。

長谷先生が今、これだけ文章を書いている理由です。

一つは、保護者のみなさんと教室が、同じ方向を向いて子どもたちを育てていくため。

教室でどんなことを大切にしているのか。

なぜ、すぐに答えを教えないのか。

なぜ、先へ進ませるのか。

なぜ、勉強だけではなく、挨拶や約束、簡単に諦めないことまで言うのか。

授業でやっていることだけを見ていると、その理由まではなかなか伝わりません。

でも、教室が大切にしていることを保護者のみなさんにも知っていただければ、教室とご家庭が、同じ方向を向いて子どもたちを見ていくことができる。

長谷先生は、それをとても大切にしているようです。

そして、もう一つ。

一緒に働いている講師のみなさんにも、赤羽南教室が何を大切にしているのかを、もっと知ってほしいという目的があります。

私たちの教室には、いろいろな先生がいます。

授業のやり方も、これまでの経験も、子どもとの接し方も、それぞれ違います。

それでいいのだと思います。

でも、その根っこにある、「この教室は、子どもたちに何を身につけてほしいと思っているのか」という部分は、みんなで共有していたい。

それが教室としてのまとまりにもなるし、日々の指導を改善していくときの基準にもなる。

長谷先生自身、

「本当は一人ひとりの表情を見て直接話せれば、それが一番いい」と言っています。

......まあ、直接話したら朝になる可能性がありますが(笑)。

もちろん、保護者のみなさん全員、講師のみなさん全員と、何時間も話すわけにはいきません。

だから文章にして残す。

時間のあるときに読んでもらって、

「赤羽南教室って、こういうことを考えている教室なんだ」と少しずつ知ってもらう。

それが、今たくさんの記事を書いている一番の目的なのだそうです。

そして今度は、別の問題が起きました

文章にできるようになったことで、長谷先生の中に昔からあった話が、どんどん原稿になっています。

すると今度は、別の問題が発生しました。

執筆と公開のバランスが、まったく合いません(笑)。

文章はどんどん増える。

でも、実際に公開する前には私が文章を読んで、調整をしてから公開します。

表現を少し直したり、

「これはさすがに書かない方がいいんじゃないですか?」と言ったり(笑)。

つまり現在は、

長谷先生が書く。
東木が整える。
そして公開する。

という、新しい分業になりました。

ところが、書く方が圧倒的に速い(笑)。

未公開の記事がどんどんたまっていきます。

とうとう「休みの日も公開しよう」となりました

そこで先週、ついに長谷先生が言いました。

「もう、教室が休みの日も記事を公開しよう!」と。

そのため最近は、「教室からのメッセージ」がほぼ毎日のように更新されています。

教室がお休みなのに記事が出ていたら、

「ああ、たまっているんだな」

と思ってください(笑)。

そして今も、たまっています。

たぶん明日も増えます。

というわけで、これが最近の赤羽南です

今日は教育の話でも、子どもの話でもありません。

最近なぜ、赤羽南教室からこんなにたくさんの記事が出てくるのか。

その舞台裏を、ちょっとだけ書いてみました。

表に出ている文章だけを読んでいると分からない、こんな教室の裏側も、たまには面白いかなと思っています。

長谷先生の頭の中には、まだまだ書きたいことがあるようです。

というより、なくなる気配がありません(笑)。

でも、それを読んでくださる保護者のみなさんや、一緒に働く先生たちに、少しずつ、「赤羽南教室が何を大切にしているのか」が伝わっていくのなら、私も頑張って公開していこうと思います。

そんな、普段の記事から少しこぼれた赤羽南の話も、これからときどき、

【赤羽南余話】として書いてみようと思います。

......とはいえ。

この文章を書いている間にも、また新しい原稿が増えているかもしれません。

長谷先生。

ちょっとまってください(笑)。






2026.09.14

小学校受験が終わった。

進学する学校も決まった。

そして、中学受験をする予定はない。

場合によっては、高校受験もない。

では、これからの時間を、何に使いますか?

私は、これはとても大きな問いだと思っています。

「受験がない=勉強を急がなくていい」なのか

中学受験をする子は、小学校高学年になると受験勉強が本格化します。

高校受験をする子も、中学生になれば入試へ向けた勉強が始まります。

一方、内部進学を基本に考えている子どもには、その受験がありません。

すると、「受験がないから、今はそれほど勉強しなくてもいい」という考え方もあります。

もちろん、それも一つの考え方です。

でも私は、逆の見方もできると思っています。

受験がないからこそ、先へ進める。

受験がない最大のメリットは「先へ進めること」

中学受験をする子は、小学校高学年のかなりの時間を中学入試のために使います。

特殊算。

難しい文章題。

模試。

志望校対策。

過去問。

どれも、受験する子には必要な勉強です。

でも、中学受験をしないのであれば、その時間を別のことに使うことができます。

小学算数が理解できたら、

中学数学へ進む。

中学数学が理解できたら、

高校数学へ進む。

私は、それでいいと思っています。

むしろ、せっかく受験がないのに、なぜ受験のところで立ち止まるのだろう

と思うのです。

算数と数学は、一本につながっている

小学算数。

中学数学。

高校数学。

学校制度上は、別々に見えます。

でも、数学そのものは切れていません。

分数。

割合。

比。

文字式。

方程式。

関数。

図形。

そして、高校数学。

全部つながっています。

小学6年生までが算数だから、小学6年生まで待つ。

中学生にならなければ、中学数学をやってはいけない。

そんな決まりが数学にあるわけではありません。

理解できているのであれば、学年で止める必要はない。

小学算数から中学数学へ。

中学数学から高校数学へ。

そして、その先の大学受験へ。

一つの道として考えればいい。

「SAPIXは違うんですよね」

以前、私立・国立小に通う子どもの保護者の方から、

「SAPIXは、違うんですよね」と言われたことがあります。

また、別の保護者の方からは、「中学入試や高校入試で鍛えられてきた子たちに、大学受験で負けない学力をつけておきたい」と言われました。

私は、この二つの言葉はつながっていると思っています。

中学受験をしたいわけではない。

でも、中学受験を通して身につくはずだった学力や思考力まで手放したいわけではない。

だからといって、中学受験をする子と同じ勉強をする必要もありません。

だったら、違う戦い方をすればいい。

受験をする子とは、違う道を進めばいい

たとえば小学6年生。

中学受験をする子が、入試算数を徹底的に勉強している。

一方、中学受験をしない子は、中学数学を勉強している。

それでいいのです。

中学生になったら、高校受験をする子が高校入試のための数学を勉強している。

一方、高校受験をしない子は、高校数学へ進んでいる。

どちらが上という話ではありません。

進む道が違うだけです。

そして、その道はいつか再び交わります。

大学受験です。

そのとき、

中学受験をした子。

高校受験をした子。

内部進学してきた子。

さまざまな道を通ってきた子どもたちが、同じ大学入試の問題を解くことになります。

だったら、受験がなかった時間を、アドバンテージに変えておけばいい。

私はそう考えています。

ただし、速ければいいとは思っていません

ここは、私たちがとても大切にしているところです。

先取りというと、「何年生で何年生の内容まで終わった」という話になりがちです。

でも、私たちはそこを競っているわけではありません。

理解できたら、先へ進む。

でも、考えるべき問題なら止まる。

一問に20分かかってもいい。

でも、自分の力で何とかしようとする。

先へ進むことと、深く考えることは、反対ではありません。

むしろ、深く考えながら、先へ進めばいい。

これが、私たちの考える先取りです。

私たちの教室は、先へ進むほど得意になります

そして、ここには赤羽南教室ならではの事情があります。

私たちは、子どもが先へ進むほど、教える側の得意分野に入っていきます。

私は長く、大学受験数学を教えてきました。

中学生も高校生も教えてきました。

ですから、小学生が小学算数を終えて、中学数学へ進むことに違和感はありません。

中学数学が終わって、高校数学へ進むことにも違和感はありません。

むしろ、そこから先は、私たちが長く教えてきた世界です。

だから、小学生の算数を教えるときにも、

「この問題が解けた」ということだけを見ているわけではありません。

中学生になったとき。

高校生になったとき。

大学受験をするとき。

その子に何が必要になるのか。

そこから逆算して、小学生の今を見ています。

言ってしまえば、

大学受験数学から逆算して、小学生を教えている。

これが、私たちの教室です。

なぜ、私立・国立小の子どもが増えたのか

現在、私たちの教室に通う小学生の約4割が、私立・国立小学校の子どもたちです。

最初から、その層を集めようと思っていたわけではありません。

内部進学専門でもありません。

それでも、気がつけば増えていました。

その理由を考えてみると、

「受験をしない。でも、学力は伸ばしたい」

というご家庭の考え方と、

「理解できたら学年に関係なく先へ進む」

という私たちの考え方が、たまたま合っていたのかもしれません。

学校の補習だけでは物足りない。

でも、中学受験塾とも違う。

そして、大学受験ではしっかり戦える学力をつけたい。

その間にある選択肢は、意外と少ないのだと思います。

受験がない時間を、空白にしない

中学受験をしない。

高校受験もしない。

それは、決して学力面で不利だと決まっているわけではありません。

使える時間があります。

その時間を、ただ「受験がない時間」にするのか。

それとも、次の学びへ進む時間にするのか。

私は後者を選びたいと思っています。

小学算数から中学数学へ。

中学数学から高校数学へ。

そして大学受験へ。

その途中で、

考える。

読む。

言葉にする。

粘る。

自分で何とかする。

それを繰り返しながら、先へ進む。

受験をしないことを、学力上の空白にしない。

むしろ、受験がないことを、学力上のアドバンテージに変える。

小学算数。

中学数学。

高校数学。

大学受験。

私たちは、その全部を一本の道として見ています。


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2026.09.13

小学校受験が終わったときというのは、

長い準備期間を経て、進学する小学校も決まり、幼児教室も、ひと区切り。

ご家庭にとっても、ようやく少し落ち着ける時期なのだと思います。

ところが、しばらくすると、こんなことを考え始めるご家庭があります。

「このあと、どうしよう。」

これまで幼児教室で、いろいろなことを学んできた。

七田式などの幼児教育で、言葉や数、記憶、思考力を育ててきたご家庭もあるでしょう。

小学校受験のために、ペーパーだけではなく、巧緻性や行動観察、言葉、考える力を鍛えてきたご家庭もあると思います。

子どもも頑張った。

保護者の方も頑張った。

そして、受験が終わった。

では、その次は、どこへ行けばいいのでしょう。

「中学受験塾」は、少し違う

私立小学校や国立小学校に通う子どもの保護者の方から、以前こんなことを言われたことがあります。

「SAPIXは、違うんですよね」

この言葉が、私はずっと印象に残っています。

もちろん、SAPIXが良いとか悪いとか、そういう話ではありません。

中学受験をするのであれば、中学受験塾という選択肢があります。

中学受験対策をする場合のとても分かりやすい道です。

でも、内部進学を基本に考えていたり、あるいは、一般的な中学受験を予定していない。

そういうご家庭にとっては、

「中学受験塾へ行く」という選択肢が、どうもしっくりこない。

だからといって、何もしなくていいと思っているわけでもない。

ここに、意外と大きな空白があるように思います。

学校の補習をしてほしいわけでもない

では、学校の勉強を見てもらう塾でしょうか。

もちろん、学校の勉強で困っているのであれば、それも一つの選択肢です。

でも、私たちの教室に来られる保護者の方々と話していると、少し違うケースが多いのです。

学校の授業についていけないわけではない。

むしろ、学校の内容だけでは少し物足りない。

中学受験塾ではない。

学校補習でもない。

せっかく幼児期から育ててきた力を、ここで止めない選択肢はないのか。

幼児期に育てたものを、そこで終わらせない

私は、小学校受験のために勉強してきたことは、合格した瞬間に役割を終えるものではないと思っています。

問題文を読む。

条件を整理する。

図を見る。

数を考える。

言葉を理解する。

人の話を聞く。

自分の頭で考える。

分からなくても、もう少しやってみる。

こうした力は、小学校受験だけのために必要なものではありません。

その先の学習にもつながっていきます。

だったら、幼児期に育ててきた力を、小学生になって「学力」へつなげていけばいい。

私はそう考えます。

「受験をしない子」のための勉強があってもいい

中学受験をする子には、中学受験の勉強があります。

では、中学受験をしない子はどうするのでしょう。

私は、中学受験をしない子には、中学受験をしない子の勉強があっていいと思っています。

受験がないから、勉強しない。

ではありません。

受験がないからこそ、受験勉強とは違うことに時間を使える。

たとえば、算数です。

小学1年生の内容が理解できれば、小学2年生へ。

小学2年生が理解できれば、小学3年生へ。

そして、小学算数が理解できたら、

中学数学へ進めばいい。

中学受験をしないのであれば、小学校高学年になったからといって、必ずしも受験算数へ向かう必要はありません。

その時間を使って、数学そのものを先へ進めるという選択肢もあります。

ただ先へ進むだけなら、私たちでなくてもいい

ここは、とても大切なところです。

私たちは、単純な先取りだけを目的にしているわけではありません。

何年生まで終わった。

何学年先へ進んだ。

それだけを競うのであれば、ほかにも方法はたくさんあります。

私たちが大切にしているのは、先へ進むことと、深く考えることを両立させることです。

難しい問題なら、立ち止まる。

分からない言葉があれば、言葉の意味を考える。

そして理解できたら、

また先へ進む。

深く考えながら、先へ進む。

幼児期に育ててきた「考える力」を、算数・数学へつないでいく。

それが、私たちの考えている学びです。

気がつけば、私立・国立小の子どもたちが増えていました

りんご塾赤羽南教室は、もともと私立小専門の教室として始めたわけではありません。

国立小専門でもありません。

ところが現在、私たちの教室に通う小学生の約4割が、私立小学校・国立小学校の子どもたちです。

筑波大学附属小学校。

お茶の水女子大学附属小学校。

雙葉小学校。

早稲田実業学校初等部。

東洋英和女学院小学部。

日本女子大学附属豊明小学校。

ほかにも、さまざまな学校から通ってくれています。

なぜだろう、と考えることがあります。

そして最近、少し分かってきた気がします。

おそらく、「中学受験塾ではない。でも、学校の補習でもない。」

その間にある学びを探しているご家庭が、思っている以上に多いのです。

小学校受験は、ゴールではない

小学校受験が終わったことは、一つの大きな節目です。

でも、子どもの学びは、そこから何年も続きます。

小学校。中学校。高校。

そして、その先。

私は、小学校受験が終わったところで、それまで育ててきたものを、一度リセットする必要はないと思っています。

幼児期に育てた様々な力を、今度は、算数・数学という学問につないでいく。

小学算数から中学数学へ。

中学数学から高校数学へ。

その先の大学受験まで。

私たちは、その学びを一本の道として考えています。

小学校受験が終わったあと、

「次は、どこの塾へ行けばいいのだろう」

と迷うことがあるかもしれません。

でも、本当に最初に考えたいのは、「どこの塾へ行くか」ではなく、「この先、何を学ばせたいのか」なのだと思います。

道は一つではありません。

そして、中学受験をしない子には、中学受験をしない子にしか使えない時間があります。

その時間を、どう使うのか。

小学校受験のあとに始まる教育は、

もしかすると、小学校受験そのものと同じくらい大切なのかもしれません。


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2026.09.12

こんにちは!東木です!

今週、長谷先生が「教育はだいたい理想通りにいかない」ということを書いていました。

読んでいて、「まあ、その通りですね」と思いました、いろいろな意味で(笑)。

教育について文章を書くと、と、いくらでもきれいなことが書けます。

どれも間違っていないと思いますが、実際の授業は、人間対人間です。

しかも相手は子どもたち。

昨日うまくいった方法が、今日も通用するとは限りません。

この子にうまくいった声かけが、別の子にはまったく響かないこともあります。

だから長谷先生の言う通り、教育って「こうすればうまくいく」という方法論だけでは、なかなかどうにもならないんですよね。

それでも、赤羽南にはずっと守っていることがあります

とはいえ、毎回すべてを先生の勘だけで授業しているわけではなくて、赤羽南教室では、開講した頃から長谷先生にずっと言われていて、私たちが守っていることがあります。

とにかく、子どもを笑わせる。

子どもが考えている間は、口を出さない。

本当に無理そうなら、その問題に固執せず問題を変える。

大きく言えば、この三つです。

これは私自身も心がけていますし、講師のみなさんにも徹底してもらっています。

ある程度この三つを守っていれば、普段の授業はだいたいうまくいきます。

問題は、ここからはみ出すケースがあることです(笑)。

「やばいやばい、お母さん来ちゃうよ!」

私も授業を担当することがあります。

そして、ときどき何を言っても、どう声をかけても、問題を変えても、ちょっと笑わせてみても、

今日はどうしてもテキストをやってくれない(笑)

という日があります。

こちらも、「まあ、そういう日もあるよね」と余裕を持っていられればいいのですが、

時計を見ると、

あと30分。

あと20分。

あと10分。

と迫ってくるお迎えの時間。

これはなかなかのプレッシャーです(笑)。

心の中では、「やばいやばい、お母さん来ちゃうよ!鉛筆持ってぇ〜!」となっています(笑)。

これ、私には相当なプレッシャーなようで、しょっちゅう夢に出てきます。

夢の中でも子どもが全然問題をやってくれない。

時計だけがどんどん進む。

もうすぐお迎えが来る。

「お願い!一問でいいから解いてぇ〜!」

ハッ!夢かぁ...(笑)。

でも、お迎えに来るお母さん、お父さんを見ると

そんなふうに毎日バタバタしているのですが、お迎えに来られる保護者のみなさんとお話ししていると、また気持ちが変わります。

お母さん、お父さんが、本当に一生懸命、我が子の将来を考えてらっしゃいます。

その思いがひしひしと伝わってくるからです。

今日できなかった問題ができるようになってほしい。

少しでも算数を好きになってほしい。

考えられる子になってほしい。

将来困らない力をつけてほしい。

それぞれ願いは違うと思います。

でも、大切なお子さんを私たちに預けてくださっている。

そして、その授業時間に期待してくださっている。

そう考えると、私たちは、その期待にきちんと応えたいと思います。

「与えられた授業時間は全力でやれ」

長谷先生から、私たちはいつも言われています。

「自分たちに与えられている授業時間は、全力でやれ」

そして、「一問でも多く解かせてほしいと思っている保護者の期待に、全力で応えろ」

こうして文字にすると......

うち、体育会系ですかね(笑)。

でも、長谷先生の言いたいことはよく分かります。

60分、80分という授業時間は、私たちにとっては毎日の授業の一コマでも、保護者の方にとっては、お金を払い、大切なお子さんを預けてくださっている時間です。

だから、「今日はあまりやる気がなかったので、これくらいで」と私たちが簡単に終わらせてはいけない。

やらないなら、どうしたらやるのか考える。

この問題が無理なら、別の問題を探す。

集中できないなら、いったん笑わせてみる。

それでもダメなら、また別の方法を考える。

その時間にできることは全部やる。

そこは、赤羽南教室がずっと大切にしていることだと思います。

そして、講師のみなさんを見ていて思うこと

私がありがたいなあと思うのは、こういう考え方を講師のみなさんも本当に大切にしてくれていることです。

授業を見ていると、

生徒が難しい問題を解けた瞬間に、先生が一緒になって心から喜んでいる姿をよく見ます。

授業が終わったあと、

「この子の授業、集中力の高い時間にこちらを優先してやってもいいですか?」

など自発的に改善案を相談してくださることもよくあります。

「今日、この話をしたらすごく喜んで話してくれました」

「こういう説明をしたら、今日はすっと理解してくれました」

「この問題はこの順番で出した方がよさそうです」

そんな情報も、しょっちゅう先生同士で共有しています。

「この子には何が合うんだろう?」をみんなで考える。

私たちの教務にも、まだまだ改善しなければならないところはたくさんあると思っています。

それでも、先生たちが授業後に生徒の話をしている姿を見ると、

本当に生徒のために一生懸命な人たちだなぁ、ありがたいなぁと、つくづく思います。

授業だけではありません。

赤羽南教室をもっと盛り上げようと、「教室からのメッセージ」もそれぞれの先生が精力的に書いてくれています。

これも、私はとても嬉しいです。

カリスマ一人では、いい教室はつくれない

長谷先生が以前、「カリスマが一人いても、いいりんご塾の教室はつくれない」ということを言っていました。

これも、毎日教室にいるとよく分かります。

先生にも、いろいろなタイプがいます。

そして、生徒にもいろいろなタイプがいます。

それが大事なんです。

私や長谷先生にはあまり話さない子が、別の先生とは楽しそうにずっとしゃべっていたりする。

逆もあります。

誰か一人が、すべての子どもにとって最高の先生になるなんて、たぶん無理なんですね。

いろいろな先生がいて、いろいろな子どもがいる。

そこで、いろいろな化学反応が起きる。

それが教室なのだと思います。

理想通りにいかないから、みんなで考える

教育は、だいたい理想通りにいかない。

本当にそうだと思います(笑)。

今日うまくいったことが、次週では全然うまくいかない。

笑わせようとして、すべることもあります。

「限界かな?」と思って声をかけたら、「そこはわかってる!」と生徒に怒られることもあります。(笑)

問題を変えたら、そっちも嫌だと言われることもあります。

そして私はまた夢の中で、

「お母さん来ちゃうよ!とりあえずまっすぐ座って〜!」と言っているのでしょう(笑)。

でも、だからこそ一人でやる仕事ではないのかもしれません。

うまくいかなかったら、他の先生の助けも借りる。

別のやり方を学ぶ。

次の授業で試してみる。

またダメなら、また考える。

長谷先生に怒られて、子どもたち相手にへとへとになって、「今日はもうボロボロだ......」と思う日もあります(笑)。

それでも翌週、子どもたちはまた元気に教室へやってきます。

そして保護者のみなさんは、大切なお子さんをまた私たちに預けてくださいます。

だったら私たちも、その期待に応えられるように、また全力でやろう!と思います。

赤羽南教室は、長谷先生一人がつくっている教室でも、私一人がつくっている教室でもありません。

講師のみなさんがいて。

子どもたちがいて。

そして、私たちを信頼してくださる保護者のみなさんがいる。

長谷先生の「教育はだいたい理想通りにいかない(笑)」を読んで、「みんなでつくっている、りんご塾赤羽南教室なんだなあ。」ということを改めて思った今週でした。

......さて。

今日もお迎えの時間までに、一問でも多く解いてもらいましょう(笑)。



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城南コベッツ赤羽南教室
りんご塾赤羽南教室

・りんご塾といえば、東は赤羽!西は滋賀!
・全国で唯一、大学受験まで指導できるりんご塾
・人間的成長なくして学力の向上なし
・語彙力なくして思考なし、思考なくして学力なし


東京都北区赤羽南1-3-7 セキネビル3F
(赤羽駅南改札より徒歩2分)
℡.:03-6903-8030  
Mail: covez_akabaneminami@johnan.co.jp
※電話対応時間:㈫~㈮ 15:30~21:00 / ㈯ 11:30~20:30











2026.09.11

先日のRINGOJUKU WORKS番外編で、

私はこんなことを書きました。

「待つことが大切」と書いている本人が、待てない。

教育について文章を書いていると、どうしても話はきれいになります。

子どもが考えるまで待つ。

すぐに答えを教えない。

失敗を奪わない。

自分で気づくまで見守る。

どれも、私が本当に大切だと思っていることです。

でも実際の教室では、そんなに簡単ではありません。

もう少し待つべきか。

ここでヒントを出すべきか。

今日は教えてしまった方がいいのか。

授業時間には限りもあります。

私自身、待ちきれずにヒントを出してしまい、

授業が終わってから、

「あそこ、あと30秒待てたな」

と思うことがあります。

それでも私は、

「教えすぎない」ということを、赤羽南の教育で大切にしたいと思っています。

なぜなら、先生という仕事をしていると、子どもが分からない問題に出会ったとき、どうしても教えたくなるからです。

「ここは、こう考えるんだよ」

「この図を描いてみよう」

「この式を使えば解けるよ」

先生は答えを知っています。

だから、教えることはそれほど難しくありません。

説明すれば、授業はスムーズに進みます。

教材も先へ進みます。

一見すると、とても良い授業に見えます。

でも私は、ときどき思います。

先生が教えれば教えるほど、子どもが考える時間は減っていないだろうか。

今回は、そんな「教える」ということについて、もう少し深く考えてみたいと思います。

分からないと、先生を見る子

子どもたちを教えていると、問題を少し読んだだけで先生の顔を見る子がいます。

まだ何も試していません。

図も描いていません。

もう一度、問題を読み直してもいません。

それでも先生を見る。

そして、あっさり「分からない」と言います。

もちろん、本当に分からないのだと思います。

問題は、そのあとです。

先生が毎回、「これはこうやるんだよ」と教えてくれる。

すると子どもは、あることを学習します。

「分からなければ、先生に聞けばいい」

ということです。

私は、これは少し怖いと思っています。

その問題を解いたのは、本当に子どもなのか

先生がヒントを出す。

子どもが解く。

「できた!」

もちろん、それも大切な経験です。

でも、少し意地悪な見方をすると、その問題を解いたのは本当に子どもなのでしょうか。

先生が問題を整理して、

見るべきところを教えて、

考える方向を決めて、

最後の計算だけを子どもがした。

それでも答案には○がつきます。

けれど、

○がついたことと、その子が考えられるようになったことは同じではありません。

「分からない」から、考えることが始まる

教育では、「分かった」ことが良くて、「分からない」ことが悪いように扱われることがあります。

私は、そうは思いません。

むしろ、分からないときこそ、考えることが始まると思っています。

分からない。

もう一度読む。

図を描く。

数字をいれてみる。

違ったら消す。

別の数字や方法を試す。

また違ったら、そこで、もう一度考える。

この時間は、とても大切です。

先生がすぐに教えてしまえば、この時間はなくなります。

子どもが困っている時間を短くすることが、必ずしも良い教育とは限りません。

「教えるか」ではなく、「いつ、どこまで教えるか」

だからといって、「分からない」と言っている子を放っておくわけではありません。

先生は見ています。

どこまで分かっているのか。

問題文を正しく理解しているのか。

何を勘違いしているのか。

もう少し待てば、自分で気づきそうなのか。

それとも、このまま考え続けても進めないのか。

必要なら声をかけます。

必要ならヒントも出します。

一緒に考えることもあります。

そして、本当に必要なら教えます。

大切なのは、

「教えるか、教えないか」ではなく、「いつ、どこまで、教えるか」。

だと思っています。

実は、教えない方が難しい

先生が解き方を説明することは、ある意味では簡単です。

先生は答えを知っていますから、自分が知っている解き方を説明すればいい。

でも、子ども自身に考えさせながら、必要なところを少しだけ支えるとなると、一気に難しくなります。

この子には、もう少し待った方がいい。

この子には、一言だけ必要。

この子には、図を描くところまで手伝おう。

この子には、今日は最初から説明した方がいい。

同じ問題でも、子どもによって、あるいはその子の体調や気分によって違います。

だから赤羽南では、

「先生がどれだけ上手に説明したか」だけを、良い授業の基準にはしていません。

先生が話していなくても、子どもが考えている。

そんな時間も、授業だと思っています。

沈黙している時間も、授業です

教室で子どもが黙って問題を見ている。

先生も黙っている。

外から見ると、「先生、何もしていないのでは?」と思われるかもしれません(笑)。

でも、その子どもの頭の中では、いろいろなことが起きています。

考えている。

試している。

迷っている。

頭の中で図を動かしている。

以前に解いた問題を思い出している。

私は、この時間を簡単に壊したくありません。

先生が何か言えば、沈黙はなくなってしまいます。

と同時に、

子どもの思考を途中で止めてしまうこともあります。

だから、よく観察し、そして待ちます。

教育では、

何を言うかと同じくらい、いつ黙っているかが大切です。

「それだけしか進んでいないんですか?」

ただ、実際にこの教育を現場で続けるのは簡単ではありません。

赤羽南では、授業後に講師から保護者の方へ、その日の授業についてフィードバックをしています。

そのとき、ときどき、

「それだけしか進んでいないんですか?」

と言われることがあります。

保護者の方の立場から考えれば、その気持ちも分かります。

同じ授業時間なら、5ページより10ページ。

10ページより20ページ。

たくさん進んだ方が、たくさん勉強したように見えます。

でも、たとえば一つの難しい問題に20分かかったとします。

教材としては、たった一問です。

でも私は、その20分を、

「一問しか進まなかった20分」

とは考えていません。

教材は一問しか進まなかった。
でも、その子自身は大きく成長した。

そんな瞬間が授業の中には確かにあります。

学生講師一人に、教育方針の責任を背負わせない

これは、教えている講師にとっても簡単なことではありません。

赤羽南では、大学生の講師も子どもたちを指導しています。

授業後、保護者の方に進捗を報告したとき、

「それだけですか?」

と言われれば、当然気になります。

真面目な講師ほど、

「もっと進めなければ」

と思います。

すると次の授業では、少し早くヒントを出す。

少し早く説明する。

迷っていたら正解の方向を示す。

答えまで誘導する。

そうすれば教材は進みます。

授業後も、「今日はここまで進みました」と言いやすくなります。

でも、それを続けていけば、

赤羽南がやりたい教育から、少しずつ離れていきます。

だから私は、講師にも繰り返し伝えています。

その子が本当に考えている時間なら、それは授業です。

ページ数が少ないことを、必要以上に気にしなくていい。

教育方針の責任を、学生講師一人に背負わせるべきではありません。

それは、教室が持つべき責任です。

「何ページ進んだか」ではなく、「何が変わったか」

授業後のフィードバックも、

「今日は○ページから○ページまで進みました」

だけでは足りないと思っています。

たとえば、

「今日は一つの問題に時間を使いました。最初は手が止まっていましたが、すぐには解き方を教えずに待ちました。すると、自分から図を描き始めました。一度間違えましたが、自分で気づいて修正し、最後は自力で答えまでたどり着きました」

これも立派な授業報告です。

むしろ私が保護者の方に知っていただきたいのは、こちらです。

何ページ進んだかではなく、今日、その子の中で何が起きたのか。
何に困って、どう考えて正解にたどり着いたのか。

昨日まで先生の顔を見ていた子が、今日は自分で考えた。

何も書かなかった子が、図を描いた。

間違えたら止まっていた子が、もう一度やった。

そういう変化を、私たちは見ています。

答えを教えないことが目的ではない

もちろん、何が何でも答えを教えないわけではありません。

子どもが長い時間考えても、まったく進まないことがあります。

まだ知らない知識が必要な場合もあります。

そこまでの理解が足りていないこともあります。

そういうときには教えます。

場合によっては、最初から丁寧に全部説明します。

私は「自分で考えさせる教育」という言葉そのものにも、少し注意が必要だと思っています。

何でも一人で考えさせればいいわけではありません。

知らないことは、教えてもらえばいい。

人に聞くことも大切です。

一緒に考えることも大切です。

大事なのは、本人が考えるべきところまで、大人が先回りしないことです。

大学受験でも、同じことが起きる

これは、幼児や小学生だけの話ではありません。

大学受験生でも同じです。

見たことのない問題が出たとき、少し考えて、

「この問題は、どうやって解くんですか?」と聞く。

あるいは解説を見る。

でも入試問題では、

「この問題には、この解法を使います」

と誘導してはくれません。

自分で判断しなければなりません。

何を使うのか。

どこから始めるのか。

何が分かっているのか。

何を求めるのか。

だから私は大学受験数学を教えるときも、解法を覚えることだけではなく、

「最初の一手を自分で考えること」

を大切にしてきました。

そして、この力は高校3年生になって突然身につくものではありません。

年中と高3の「どうしよう」

年中の子が積み木を前にして、「どうしよう」と考えている。

高校3年生が入試問題を前にして、「どうしよう」と考えている。

扱っている内容は、まったく違います。

でも私は、この二つをそれほど別のものだとは思っていません。

分からなくても、何かやってみる。

違ったら、また考える。

この経験を、小さい頃から何度もしてほしい。

だから赤羽南では、子どもが困っているとき、すぐには助けないことがあります。

冷たいからではありません。

その「どうしよう」の時間に、育っているものがあると思っているからです。

同じ「できた」なら、「自分でできた」を

先生に教えてもらって正解する。

それも「できた」です。

でも、

ずっと考えて、

何度か間違えて、

最後に自分で気づいて、

「あっ!」となる。

同じ○でも、私は少し違うと思っています。

子どもに残るのは、「自分でなんとかできた」という経験です。

その経験が積み重なると、次に難しい問題が出たとき、すぐに先生に助けを求めるのではなく、

「ちょっとやってみよう」と思えるようになります。

私は、それを育てたいと思っています。

教えるために、教えすぎない

ここまで書くと、

「では赤羽南では、先生たちがいつも完璧に待てているのか」

と思われるかもしれません。

もちろん、そんなことはありません(笑)。

私自身、待てないことがあります。

ヒントを早く出しすぎたと反省することもあります。

学生の先生たちも迷います。

「ここは教えた方がいいですか?」

「もう少し待った方がいいですか?」

そんな相談もあります。

だからこそ、これはマニュアルにはできません。

「何分待ったらヒントを出す」

「何回間違えたら教える」

そんなルールで決められるものではないからです。

目の前の子どもを見て、その都度考える。

うまくいかなければ、授業が終わってからまた考える。

次は少し待ってみる。

次はもう少し早く助けてみる。

番外編でも書いたように、

理念とは、子どもをその通りに動かすためのマニュアルではなく、先生が迷ったときに戻る場所なのだと思います。

「教えすぎない」というのも、まさにそうです。

完璧にできているから掲げているのではありません。

難しいからこそ、大切にしたい。

そう思っています。

教えすぎない教育には、子どもの我慢だけが必要なのではありません。

先生にも我慢が必要です。

すぐ教えない。

すぐ助けない。

すぐページ数を稼ごうとしない。

そして保護者の方にも、

「考えている時間にも、学習としての価値がある」

ことを、少しずつ、そして繰り返し伝えていく必要があります。

子ども。

先生。

保護者。

そして教室。

みんなが同じ方向を向かなければ、この教育を続けることはできません。

先生の仕事は、教えることです。

これは間違いありません。

でも私は、教えることと、答えまで連れていくことは同じではないと思っています。

必要な知識は教える。

困っていれば支える。

でも、子どもが自分で歩けるところまで、先生が抱えて運ばない。

少し待つ。

少し離れる。

必要なときだけ手を貸す。

そして、自分でたどり着いたら一緒に喜ぶ。

それが、私たちの考える「教える」です。

だから赤羽南では、教えるために、教えすぎない。

教材が一問しか進まない日があってもいい。

教材よりも、その子自身が進んでいる。

私たちが見たいのは、そちらです。

そして、この教育を続けるためには、子どもだけではなく、

教える側も、待てる大人でなければならない。

いや、正確には、

待てる大人でありたい。

私自身も含めて、そう思っています。



ChatGPT Image 2026年9月9日 20_05_12.png
うーんうーんうーん.........ピピン(!!)



2026.09.10

皆さんこんにちは!

りんご塾赤羽南教室の天羽です!




夏休みが明け、楽しい夏休みの話から、

少しずつ学校での話を聞くようになりました。


最近では、

「運動会の練習が始まった!」

という話や、

「ダンスの練習が難しくて......」

など、思い思いの話を、教室に来てすぐに聞かせてくれます。


授業中も話が盛り上がることもありますが、

「約束のテキストが全部できたら話聞きたいな~」

と伝えると、しっかりと集中して取り組んでくれます。


みんなの元気な姿を見ることができ、

学校での出来事もたくさん聞けて嬉しい限りです。



さて本日は、

いつもの授業での出来事ではなく、

幼児用のテキストを見ていて考えたことについて書いてみようと思います。




先日、テキストを見ていると、

「これ、大学で勉強したことに似ているかも!」

と思う問題がありました。


IMG_2793.JPG



それが、

「三ツ山課題」

です。


三ツ山課題とは、

幼児が他者の視点をどの程度理解できているかを見るものです。



こちらの画像も参考になると嬉しいです!!

三ツ山課題_具体画像.png

例えば、子どもの前に高さや形の違う3つの山があるとします。


自分がいる場所から見える山の景色と、

反対側にいる人から見える山の景色は違いますよね。



そこで、

「反対側にいる人には、どんなふうに見えているかな?」

と考えます。


大人にとっては、

それほど難しいことではないように感じます。



でも、小さな子どもにとっては意外と難しいんです。



私が大学で「三ツ山課題」について学習したとき印象に残ったのは、

幼児期の子どもは、自分を中心に世界を捉えているということでした。



発達心理学では、このような特徴を「自己中心性」といいます。


ここでいう「自己中心性」は、

「自分勝手」

「わがまま」

という意味ではありません。



小さいうちは、

自分が見えているものを、

他の人も同じように見ていると思ってしまう。



「自分に見えているんだから、相手にも見えているよね」

という感覚です。



これは子どもにとって自然なことで、

幼児期の発達の一つとして考えられています。



でも、成長していろいろな人と関わっていく中で、

「自分と相手は違うんだ」

「同じものを見ていても、違う見え方をするんだ」

ということに少しずつ気づいていきます。



そして小学生くらいになると、

少しずつ「自分の視点と相手の視点を分けて考えられる」ようになっていきます。



大学でこの話を聞いたとき、

「そういえば、小さい頃って自分を中心に世界が回っているように思っていたかもな~」

と、自分自身の幼い頃を思い出しました。


そして、成長するということは、

自分以外の人の存在を知り、

その人からは世界がどう見えているのかを、

少しずつ想像できるようになることでもあるのだと知りました。



そんなことを大学で学んでいたので、

りんご塾の幼児用テキストの中に似た考え方の問題を見つけたとき、

「これって、三ツ山課題と同じだ!」

と嬉しくなりました。



大学では発達心理学として学んだことが、

りんご塾では子どもたちが実際に取り組む問題になっていたんです。



そして今回、

改めて教材を見ながら、

もう一つ気づいたことがありました。



それは、

「教材が何を求めて作られているのかを知ることで、

 先生の教え方も変わるのではないか」

ということです。



例えば、人形から物がどう見えるのかを考える問題で、

子どもが分からず困っていたとします。



そんなとき、

「この人形さんには、どう見えると思う?」

と聞くこともできます。



でも、

「○○ちゃんが、この人形さんのところに立っていたら、どう見えるかな?」

と聞くこともできます。



一見すると、同じことを聞いているように思います。

でも私は、この二つは少し違うのではないかなと思いました。




後者では、一度自分が今いる場所を離れて、


「もし自分が相手の場所にいたら?」


と考えることになります。



実際にその場所へ自分を置き換えて想像してみる。


そうすると、今までとは少し違った見方ができるかもしれません。


私はこの考え方が、とても面白いなと思いました。




「この人のところに自分が立ったら、どう見えるかな?」

という考え方は、算数や図形の問題だけのものではないように感じたからです。



人と関わるときにも、

「自分だったらどう思うか」

だけではなく、


「この子の立場だったら、どう感じるかな?」

と考えることがあります。



もちろん、

三ツ山課題ができることと、

人の気持ちを思いやれることがそのまま同じというわけではありません。



でも、

自分とは違う場所から物事を見てみる。

その経験を積み重ねていくことは、

他者の存在に気づき、

相手の立場について考えることにもつながっていくのではないかな、と私は感じました。



先生が、

「この力を見るために作られているんだな」

「こんな力を伸ばしたいんだな」

と分かっていれば、

子どもが止まったときに出すヒントも変わります。



すぐに答えにつながるヒントを出すのではなく、

「○○ちゃんだったらどう見える?」

「○○ちゃんがここに立っていたら?」

と、その子自身が視点を動かすためのヒントを出すことができます。



問題を解かせることだけを考えれば、

どちらのヒントでも正解にたどり着けるかもしれません。



でも、

「何のためにこの問題を解いているのか」

まで考えると、先生の一言も変わってくるのだと思いました。



そう考えると、

先生自身が教材について学ぶことも、

とても大切だと気付かされました。



大学で学んだときには、

「発達心理学の三ツ山課題」として覚えていたものが、

実際に子どもたちと関わりながら見ると、全く違って見えました。



大学で学んだことを教室で見つける。

教室で見つけたことから、大学で学んだ意味をもう一度考える。

最近、この行き来がとても面白いです!


これからも、

「あ!これ大学で勉強したことだ!」

という発見があったら、皆さんにもご紹介していきたいと思います。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました!



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城南コベッツ赤羽南教室
りんご塾赤羽南教室

・りんご塾といえば、東は赤羽!西は滋賀!
・全国で唯一、大学受験まで指導できるりんご塾
・人間的成長なくして学力の向上なし
・語彙力なくして思考なし、思考なくして学力なし

東京都北区赤羽南1-3-7 セキネビル3F
(赤羽駅南改札より徒歩2分)
℡.:03-6903-8030  
Mail: covez_akabaneminami@johnan.co.jp
※電話対応時間:㈫~㈮ 15:30~21:00 / ㈯ 11:30~20:30

2026.09.09

RINGOJUKU WORKSを始めてから、私は教育についていろいろなことを書いてきました。

自分で考えることが大切だ。

簡単に答えを教えてはいけない。

大人は待たなければいけない。

失敗を奪ってはいけない。

簡単に諦めない子を育てたい。

先取りをしても、急がせてはいけない。

答えより、考えた時間が残る。

こうして並べてみると、

我ながら、ずいぶん格好いいことを書いています(笑)。

では私は、毎日の授業で、そんな理想通りの指導ができているのか。

今日は、そのことについて正直に書いてみようと思います。

結論から言います。

全然できていません(笑)。

教育の現場は、そんなにきれいではない

私は長い間、教育の仕事をしてきました。

小学生、中学生、高校生、大学受験生。

いろいろな年代の子どもたちを教えてきました。

自分自身の子育ても、もう終わっています。

だから、子どもというものを、それなりに分かっているつもりでした。

ところが今、りんご塾で年中、年長、小学校低学年の子どもたちを毎日のように教えていると、

そんな自信は簡単に吹き飛ばされます(笑)。

4歳、5歳、6歳の子どもたちです。

昨日できたことを、今日はやらない。

先週あれだけ頑張ったのに、今週は最初から「やりたくない」。

問題を読んでほしいのに、隣の子の積み木が気になる。

「もう一回考えてみよう」

と言った瞬間に、

「わかんなーい」

と返ってくる。

こちらが一生懸命話しているのに、そもそも聞いていない(笑)。

ブログには、

「子どもが考えるまで待つことが大切です」

と書いている私が、

「ちょっと先生の話聞こうか(笑)」

と言っている。

これが現実です。

子育ても教育も、理想と現実の差がものすごい

私は、子育てと教育には、とてもよく似たところがあると思っています。

それは、

理想と現実のギャップが、とにかく大きいことです。

子育ての本を読めば、いろいろなことが書いてあります。

子どもの話をよく聞きましょう。

感情的に怒らないようにしましょう。

子どもの自主性を大切にしましょう。

他の子と比べないようにしましょう。

その通りです。

全部正しい。

教育も同じです。

自分で考えさせましょう。

すぐに答えを教えないようにしましょう。

子どもを待ちましょう。

成功体験を積ませましょう。

これも全部正しい。

でも、

それが毎日できたら苦労しないんです(笑)。

私は自分の子育てを終えています。

教育の仕事も長くやってきました。

それでも、幼児や低学年の子どもたちを前にして、

「今日はどうしたらいいんだろう」

と思うことがあります。

いや、

心が折れている日だって、普通にあります。

何十年やっても、です。

「待つことが大切」と書いている本人が、待てない

例えば、私はRINGOJUKU WORKSで何度も、

「待つことが大切だ」

という話を書いています。

これは本当にそう思っています。

でも、実際の授業では難しい。

目の前の子が考えている。

ここは自分で気づいてほしい。

だから待つ。

30秒。

まだ考えている。

1分。

もう少し待ちたい。

でも授業時間は決まっています。

ほかの子もいます。

子どもの集中力にも限界があります。

さて、どうする。

ヒントを出すか。

もう少し待つか。

今日はここまでにするか。

その判断を、授業中ずっと繰り返しています。

そして私自身、待ちきれずにヒントを出してしまうこともあります。

授業が終わってから、

「あそこ、あと30秒待てたな」

と思う。

逆に、

「今日は頑張らせすぎたかな」

と思う日もあります。

もっと言えば、

「あの言い方は良くなかったな」

と思うこともあります。

先生だって失敗します。

私も失敗します。

今でもです。

昨日うまくいった方法が、今日は通用しない

教育が難しいのは、

同じことをすれば、同じ結果になるわけではない

ところです。

昨日は少し厳しく言ったら頑張った。

だから今日も同じように言ってみる。

今日は泣いてしまった。

昨日はヒントを出したら、そこから一気に解けた。

今日も同じようにヒントを出す。

今日は考えることをやめてしまった。

同じ子でも違います。

その日の体調も違う。

気分も違う。

学校で何かあったかもしれない。

眠いのかもしれない。

お腹がすいているのかもしれない。

特に小さな子どもたちは、こちらの教育計画なんて簡単に壊してくれます(笑)。

だから、

「この指導法が正しい」

「こうすれば子どもは伸びる」

と簡単には言えません。

目の前の子どもを見ながら、

今日は待つ。

今日は教える。

今日は少し厳しく言う。

今日は笑わせる。

今日は進める。

今日は進めない。

その判断を毎回するしかありません。

これが、本当に難しい。

何十年やっても、心が折れる

教育を長くやっていると、

何でも分かっているように見られることがあります。

でも、そんなことはありません。

むしろ長くやればやるほど、

分からないことの多さが分かってきます。

特に幼児や低学年の指導は、本当に難しい。

何回言っても伝わらない。

昨日できたことが今日はできない。

一生懸命考えた授業が、まったくハマらない。

そんな日が続けば、

「自分のやり方が間違っているのかな」

と思うことだってあります。

自分の子育ても終わった。

教育にも長く携わってきた。

だったら、もう少し上手にできてもいいんじゃないか。

そう思います。

でも、できない(笑)。

4歳、5歳、6歳の子どもたちは、

私の経験も、

経歴も、

肩書も、

そんなものにはまったく忖度してくれません。

当たり前です。

だから今でも迷います。

今でも反省します。

そして、ときどき本気で心が折れます。

そんな私を、助けてくれる人たちがいる

そして、今回これを書こうと思った一番の理由は、ここかもしれません。

私は一人でこの教室をやっているわけではありません。

教室長の東木先生がいます。

そして、一緒に子どもたちを見てくれている学生の先生たちがいます。

私は、本当にこの人たちに助けられています。

私自身が少し熱くなってしまったとき。

何度言っても伝わらなくて、

「今日はちょっとキツいな」

と思っているとき。

隣を見ると、東木先生が私とは違う距離感で子どもと話している。

学生の先生が、

同じ説明を嫌な顔ひとつせず、もう一度してくれている。

子どもができた瞬間に、

自分のことのように喜んでくれている。

そんな光景を見て、

私自身が救われることがあります。

年齢も、肩書も、教育歴も関係ない

私は教育の仕事を長くしています。

学生の先生たちから見れば、親より上の世代かもしれません。

でも、だから私の方がいつも正しいなんてことはありません。

子どもへの接し方を見て、

「ああ、その言い方いいな」

と思うこともあります。

「自分だったら、そんなふうに待てなかったな」

と思うこともあります。

学生の先生から教えられることだってあります。

東木先生に助けてもらうことも、本当にたくさんあります。

教育の現場では、

年齢も、

肩書も、

キャリアも、

最後はあまり関係ないのかもしれません。

目の前にいるこの子に、今、何をしてあげるのが一番いいのか。

みんなでそれを考える。

分からなければ相談する。

うまくいかなければ、また考える。

誰かが疲れたら、別の誰かが支える。

先生が子どもを支えているように見えて、

実は先生同士も支え合っています。

華やかな実績の裏側にあるもの

りんご塾赤羽南教室には、外から見える実績があります。

算数オリンピックのメダル。

検定の合格。

学年を越えた先取り。

難しい問題を解けるようになった子どもたち。

もちろん、どれもうれしいことです。

でも、実際の教室で圧倒的に多いのは、

そんな華やかな瞬間ではありません。

「問題を読もう」

「もう一回やってみよう」

「鉛筆持とうか」

「人の話を聞こう」

「"むり"って言わないでね」

「とりあえず椅子に座ろっか(笑)」

「さっき約束したよね」

そんなことの繰り返しです。

今日言ったことを、来週また言う。

来週言ったことを、その次の週にもまた言う(笑)。

それでも言い続ける。

できなかったら、またやる。

泣いたら、落ち着くまで待つ。

嫌になったら、どうすればもう一度向き合えるか考える。

できたら一緒に喜ぶ。

外からは見えない、

名前すらつかない仕事の積み重ね。

それが、教室の日常です。

そして私は、その一つひとつをやってくれている先生たちに、本当に感謝しています。

教育は、一人の「すごい先生」がつくるものではない

若い頃の私は、今とは少し違ったかもしれません。

いい授業をする先生がいて、

その先生が生徒を引っ張って、

結果を出す。

そんなイメージをどこかに持っていたように思います。

でも今は違います。

教育は、一人の「すごい先生」がつくるものではない。

少なくとも、小さな子どもたちを育てていく教室は、そんな単純なものではありません。

子どもがいて、

保護者の方がいて、

先生たちがいて、

みんなで少しずつつくっていく。

私一人だったら、今の赤羽南教室は絶対にできません。

これは謙遜でも何でもありません。

本当にそう思っています。

東木先生。

学生の先生たち。

毎日、子どもたちに向き合ってくれて、本当にありがとうございます。

私が心折れているときに助けてもらっていることも、

実は結構あります(笑)。

それでも、私は理想を書き続ける

ここまで書いて、

ではRINGOJUKU WORKSで理想を語ることに意味があるのか。

もちろん、あると思っています。

むしろ、

理想通りにいかないからこそ、理想が必要なのです。

理念は、子どもを思い通りに動かすためのマニュアルではありません。

先生が迷ったときに戻る場所です。

今日、教えすぎた。

だったら次は、もう少し待ってみよう。

今日、言いすぎた。

だったら次は、違う言葉を使ってみよう。

今日は手を貸しすぎた。

だったら次は、少し離れてみよう。

完璧にできなくてもいい。

でも、

自分は何を大切にして教育をしているのか。

そこだけは忘れない。

だから私は、これからもRINGOJUKU WORKSで、

「自分で考えることが大切だ」

「待つことが大切だ」

「簡単に諦めてはいけない」

と、たぶん偉そうに書き続けます(笑)。

そして、その数時間後には教室で、

「いったん、先生の話、聞こうか(笑)」

と言っているかもしれません。

それでいいと思っています。

理想と現実の間で、今日も教える

子育ても、教育も、

理想通りにはいきません。

むしろ、

理想通りにいかない日の方が多いのかもしれません。

でも、理想通りにいかないから、

考える。

悩む。

反省する。

人に助けてもらう。

そして、また次の日にやってみる。

教育とは、

立派な理念を掲げて、

その通りに子どもを動かす仕事ではないのだと思います。

理想と現実の間で泥だらけになりながら、それでも目の前の子どもを諦めない仕事。

そしてもう一つ。

長く教育をやってきた今、強く思うことがあります。

一緒に泥だらけになってくれる人がいることは、本当にありがたい。

私がうまくできないところを誰かが助けてくれる。

誰かが困っていれば、今度は私が助ける。

そうやって教室は続いていく。

明日もきっと、理想通りにはいきません(笑)。

また同じことを何回も言うでしょう。

「さっきも言ったよね」と言ってしまうこともあるでしょう。

待つつもりだったのに、待てないこともあるでしょう。

私も失敗するでしょう。

心が折れる日も、きっとまたあります。

それでも、

東木先生や学生の先生たちと、

また子どもたちを迎えます。

うまくいかなかったら、またみんなで考える。

誰かが疲れていたら、誰かが助ける。

そして子どもが昨日できなかったことを一つできたら、

みんなで喜ぶ。

そんな毎日を、また繰り返します。

華やかではありません。

格好よくもありません。

でも私は、

そんな泥臭い毎日の中にこそ、教育の本当の姿があるのだと思っています。


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ワイワイ、ガヤガヤ、カリカリカリ

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