城南コベッツ赤羽南教室

Tel:03-6903-8030

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受付時間: 15:30~20:00(火~金)/14:30~19:30(土)/休み(日月祝)

  • りんご塾(算数オリンピック対策)
  • atama+個別指導
  • 総合型・学校推薦型選抜対策(推薦ラボ)

2026.09.30

私には、少し変わった教え子がいます。

宮崎格久。

現在は大学入試数学の講師として、医学部や難関大学を目指す受験生を指導しています。

大学入試数学の参考書も何冊も出版しています。

今では立派な数学講師です。

でも、私が宮崎と出会ったのは、彼がまだ高校生の頃でした。

当時、私は予備校で大学受験数学を教えていました。

宮崎は、私の授業を受けていた生徒の一人です。

もちろんその頃は、その生徒とその後こんなに長く付き合うことになるとは思っていませんでした。

高校生だった教え子が、教える側になった

大学に進学した宮崎は、自分が高校生のときに通っていた塾で、講師のアルバイトを始めました。

今度は自分が数学を教える側になったわけです。

そして大学を卒業すると、小学校の教員になりました。

私は当然、「宮崎はこのまま小学校の先生をやっていくんだろうな」と思っていました。

ところが数年後。

宮崎から連絡が来ました。

話を聞くと、「予備校講師をやりたいです。」

そして、「弟子にしてください。」

と言うのです。

今の時代、「弟子にしてください」

なんて言ってくる人は、なかなかいません(笑)。

でも本人は本気でした。

そこから、宮崎の予備校講師としての仕事が始まりました。

最初の数年間は、喫茶店で「授業」を教えていた

予備校講師になったからといって、いきなり授業ができるわけではありません。

数学の問題が解けることと、その問題を人に教えられることは、まったく別です。

さらに言えば、「教えられる」ことと、「授業として成立させられる」ことも違います。

宮崎が予備校で教え始めた最初の数年間、よく二人で喫茶店に行きました。

数学の問題を広げて、「先生、この問題はどう教えればいいですか?」と聞かれる。

私は、

「ここから入った方がいい」

「この式はいきなり書かない方がいい」

「ここは先に説明しちゃダメ」

「ここで一回、生徒に考えさせる」

そんな話を一問ずつしていました。

教えていたのは、問題の解答ではありません。

「この問題を、どう授業にするのか」です。

同じ問題でも、どこから入るかによって生徒の理解は変わります。

何を先に言うか。

何をあえて言わないか。

どこで生徒に考えさせるか。

どこで一気に説明するか。

予備校の授業は、単に正しい解答を黒板に書けば成立するものではありません。

そんなことを、ずいぶん細かく宮崎と話していました。

「先生はここで10秒くらい間をとるんです」

当時、私の授業を撮影した動画がありました。

その編集を、宮崎にお願いしたことがあります。

普通なら、

映像を切ったり、

音声を確認したり、

必要なところをつないだり。

そんな作業をするものだと思います。

ところが宮崎は違いました。

私の授業のメモを取りながら編集していたのです。

板書の内容だけではありません。

説明の順番だけでもありません。

あるとき宮崎が言いました。

「先生は、ここで10秒くらい間をとるんです。」

......。

そこまで見てるのか(笑)。

気持ち悪いですよね(笑)。

でも宮崎は、本当にそうやって私の授業を見ていたんです。

どこで説明するか。

どこで問いかけるか。

どこで話すスピードを変えるか。

そして、どこで黙るか。

授業というのは不思議なものです。

同じ問題を扱って、

同じ解法を説明して、

同じ板書をしたとしても、

同じ授業にはなりません。

話すスピード。

声の強弱。

説明の順番。

問いかけるタイミング。

そして、「間」。

たった10秒黙っている間にも、生徒の頭の中ではいろいろなことが起こっています。

表情や目つきを前から見ていると、それがすごくよくわかります。

考えているのか。

困っているのか。

何かに気づきそうなのか。

もう少し待てば、自分で先へ進めるのか。

それを見ながら、次の言葉を決める。

だから私は、授業中に意図的に黙ることがあります。

宮崎は、その10秒まで盗もうとしていた(笑)。

そして、本を出した

その宮崎が、やがて大学入試数学の参考書を出版するようになりました。

何冊も本を出し、かなり売れた本もあるようです。

普通ならここで、「長年の指導経験から生まれた独自の指導法です」くらい言っておけばいいと思うんです(笑)。

ところが宮崎。

本を出すとき、いろいろな人にこう言って回っていました。

「これ、長谷先生のパクリです。」

おい(笑)。

自分で言うな。

それを聞いたとき、私は腹が立つどころか、

「こいつ、すごいなあ。ほんとに敵わないよ(笑)」と思いました。

もちろん、今の宮崎の授業が私のコピーだと言いたいわけではありません。

予備校講師として何年も授業をしていれば、当然、自分の授業になっていきます。

でも、高校生のときに私の授業を受け、

数年後に、「弟子にしてください」と戻ってきて、

喫茶店で一問ずつ授業の作り方を聞き、

私の授業動画を、「ここで10秒くらい間をとる」とメモしながら研究していた。

そこまでやった本人が、「長谷のパクリです」と言うのですから、まあ、完全に嘘でもありません(笑)。

真似することは、悪いことなのか

私は、若い先生がその道で食べてきた先生、いわゆる先輩やベテランの先生を真似をすることを、悪いとは思っていません。

むしろ最初は、徹底的に真似すればいい。

説明の仕方。板書。問題の選び方。

授業の組み立て。問いかけ。

そして、10秒の間まで(笑)。

でも、本当に難しいのはその先です。

人から教わったものを、自分で何百回、何千回と授業する。

うまくいかない。

変える。

また試す。

生徒の反応を見る。

また変える。

それを何年も繰り返して、

ようやく、人から教わったものが、自分のものになる。

宮崎は、それをやったのだと思います。

だから今では、宮崎には宮崎の授業があります。

私には私の授業があります。

それでいい。

いや、そうならなければいけないのだと思います。

気がつけば、15年以上一緒に教えている

そんな宮崎とは、北里順天の課外講習でも、もう15年以上一緒に仕事をしています。

高校生で予備校に来ていた生徒が、今では同じ現場で数学を教えている。

考えてみると、不思議なものです。

そして最近、もう一つ面白いことがありました。

私は約15年ぶりに、東京メディカル学院で再び授業を担当することになりました。

そこには宮崎もいます。

久しぶりに私が戻ってきたとき、経営者の曲(まがり)さんが宮崎について、こんなことを言いました。

「宮崎、長谷ちゃんのパクリやろ。本物現れたらダメだわ。」

ひどい(笑)。

宮崎からすれば、「本物を呼び戻すなよ」という話でしょう(笑)。

もちろん今のは冗談です。

今では宮崎は、私の代用品でもコピーでもありません。

一人の予備校講師として、自分の授業をしています。

ところが、この話にはまだ続きがある

宮崎には子どもがいます。

その子が小学1年生になったとき、

りんご塾赤羽南教室に通い始めました。

宮崎の家は、赤羽の近所ではありません。

吉祥寺です。

吉祥寺から赤羽まで通って、小学1年生から小学4年生まで。

4年間、赤羽南に通いました。

これも、改めて考えると不思議な話です。

高校生だった宮崎に、私が大学受験数学を教えた。

その宮崎が、「弟子にしてください」と戻ってきた。

今度は私が、「数学をどう教えるのか」を宮崎に教えた。

そして宮崎自身が予備校講師になり、高校生たちに数学を教えるようになった。

さらに時間がたって、今度は宮崎の子どもを、私が教えることになった。

しかも、大学受験数学ではありません。

小学校低学年の算数です。

ずいぶん遠くまで来たようで、実は同じところにいる

高校生だった宮崎を教えていた頃、私は大学受験数学を教えていました。

今、赤羽南で私が向き合っているのは、年中、年長、小学1年生を中心とした子どもたちです。

ずいぶん違うことをやっているように見えます。

でも私自身は、それほど違うことをしているつもりはありません。

子どもが問題で止まったとき、すぐに答えを教えない。

生徒の表情を見ながら、少し待つ。

「どういう意味だと思う?」「別の言葉で言える?」「何かできることない?」と問いかける。

そして、ときには、あえて黙る。

考えてみれば、宮崎が昔、私の授業動画を見ながら測っていた、あの「10秒」です。

高校生に対して使っていた10秒と、幼児や小学校低学年に対して使っている10秒。

教えている内容はまったく違います。

一方は大学受験数学。

一方は幼児・小学生の算数。

でも、その根っこには、同じ考えがあります。

それは、
自分で考える時間を、教える側が奪わない。

私は大学受験数学を30年以上教えてきました。

その中で、数学が劇的に伸びる子と、途中で苦しくなる子を、たくさん見てきました。

難しい問題を前にしても、自分で何とかしようとする子。

問題文をきちんと読める子。

自分の考えを言葉にできる子。

一つの方法でダメなら、別の方法を試せる子。

間違えても、もう一度考えられる子。

そういう力は、高校3年生になったから突然身につくものではありません。

だから私は今、ずっと手前まで戻って、幼児や小学校低学年の子どもたちを教えています。

教育という仕事は、不思議です

こうして書いてみると、ずいぶん長い時間が流れたんだなと思います。

教師という仕事を30年以上やってきました。

何人の生徒を教えたのか、もう分かりません。

ほとんどの生徒は、それぞれ別の世界へ進んでいきました。

でも、ときどき宮崎のような人間が現れる。

教えたものを持って、今度は自分が教える側になり、それを次の世代へ渡していく。

そして、その子どもがまた私のところへやってくる。

教育という仕事を長く続けていると、こんなことが起こるんですね。

昔、「先生はここで10秒くらい間をとるんです。」と、私の授業を気持ち悪いくらい研究していた宮崎(笑)。

そんな人間から、「弟子にしてください」と言われたことを、今では少し誇りに思っています。

そして、その師匠は今日も、赤羽で年中の子どもと積み木をやっています(笑)。

ずいぶん遠くまで来たようにも見えますが、私の中では全部が同一直線上。

教えるということは、答えを渡すことではない。

自分で考え、自分の力でなんとかしようとする人間を育てること。

宮崎に数学を教えていた頃も。

宮崎に授業の仕方を教えていた頃も。

宮崎の子どもを教えていた頃も。

そして今、赤羽南の子どもたちを教えているときも。

たぶん私は、ずっと同じことをやっているのだと思います。

最後になりますが、少しだけ、宮崎の本を宣伝させてください。

書店で見つけたら見てもらえると、宮崎も私も喜びます。

購入していただけると、宮崎がとても喜びます!(笑)

宮崎先生著書.png▶大学入試数学 落とせない必須101題 スタンダードレベル
▶大学入試数学 落とせない必須101題 ハイレベル
▶大学入試 宇宙一やさしい数学Ⅰ・A 基本の99
▶大学入試 宇宙一やさしい数学Ⅱ・B+ベクトル 基本の111

※今回のブログは、宮崎先生に読んでもらって掲載の許可を頂いております

2026.09.29

今日、教育に関するニュースを読んでいて、かなり考えさせられる記事に出会いました。

オーストラリア・シドニーで学習塾を運営していたDymocks Educationが、「Dymocks Tutoring」と「Talent 100」の事業を2026年9月27日で終了しました。

驚いたのは、その理由です。

会社側は、AIの普及によって学習を取り巻く環境そのものが変わったと説明しています。

多くの生徒がAIから低価格で役立つ説明を受けられるようになり、今では、「学習の助けを得られるか」ではなく、「AIをうまく使えるか」の方が課題になっている。

さらに保護者に対して、家計への負担を考えるなら、GeminiやChatGPTなどのAIに少額を投資することまで勧めています。

塾を経営していた会社自身が、「高い塾代を払い続けるより、AIを使うという選択肢がある」と話して事業から撤退する。

教育に関わっている人間として、これはかなり衝撃的な出来事でした。


AIは、本当にそこまで教えられるのか

ちょうど同じ時期に、興味深い研究も発表されています。

「StudentBench」という研究です。

GREというアメリカの大学院進学試験を使い、2,383人を対象として、AIによる指導、人間の専門家による指導などを比較しました。

その結果、GREの学習効果について、一部のAIによる指導は、人間の専門家による指導と統計的に同等の結果を示しました。

さらに、同等の学習効果を示したAIの一つでは、学習効果1ポイントあたりの費用が、人間による指導の918分の1だったと報告されています。

もちろん、ここは慎重に考えなければなりません。

これは幼児や小学生を対象にした研究ではありません。

GREという特定の試験を使った研究です。

ですから、「AIはすべての教育において人間と同じになった」などと言える研究ではありません。

それでも、

問題を説明する。
分からないところを教える。
練習問題をつくる。
別の言葉で説明する。

こうした仕事について、AIが急速に人間へ近づいていることは無視できないと思います。

実際、私自身もChatGPTを日常的に使っています。

何度聞いても嫌な顔をしません(笑)。

「もっと簡単に説明して」と言えば説明し直してくれる。

「別の例で説明して」にも対応してくれる。

類題もつくれる。

文章も直せる。

しかも、どれほど指示を与えても、疲れません。

そう考えると、「分からない問題を分かりやすく説明する」ことだけを塾の価値としてきたのであれば、これからかなり厳しい時代になると思います。


では、塾はなくなるのか

私は、そう単純な話ではないと思っています。

今回のDymocksの撤退についても、オーストラリアの教育関係者からは異なる見方が出ています。

別の学習塾Matrix Educationでは、AIを教育に取り入れながらも、対面で人間から指導を受けることには引き続き価値があるという立場を示しています。

また、シドニー大学で数学教育などに携わるBen Zunica氏は、AI家庭教師は今後さらに進歩するとしながらも、生徒がAIにすぐ答えを求めてしまうことを問題として指摘しています。

人間の講師なら、答えをすぐに教えず、生徒と一緒に順序を追って考えることができる、というのです。

これを読んだとき、私は少し笑ってしまいました。

それ、私たちがずっとやっていることだな、と。


実は、赤羽南もAIを使っています

ここで一つ、書いておきたいことがあります。

りんご塾赤羽南教室は、AIを否定している教室ではありません。

むしろ逆です。

私たちの教室でも、AI教材のatama+(アタマプラス)を導入しています。

atama+は、一人ひとりの学習状況を分析し、つまずきを特定し、必要な講義や演習、復習を提案していく仕組みを持っています。

atama plus自身も、AIを活用することで、先生が一方的な解説だけに時間を使うのではなく、生徒への働きかけなど、人間だからできる仕事に力を使えるという考え方を示しています。

私は、この考え方にはとても共感しています。

AIにできることまで、人間が意地になってやり続ける必要はないと思っています。

一人ひとりの理解度を分析する。

どこでつまずいているのかを探す。

必要な単元まで戻る。

適切な問題を出す。

理解度に合わせて反復する。

こうしたことは、AIが非常に得意です。

だったら、AIにやってもらえばいい。

問題は、その先です。


AIに任せるからこそ、人間は何をするのか

AIが学習状況を分析してくれる。

問題も出してくれる。

説明までしてくれる。

では、教室にいる先生は何をするのでしょうか。

私は、ここにこれからの塾の大きな意味があると思っています。

人間は、子どもを見る。

なぜ鉛筆が止まったのか。

なぜ「わからない」と言ったのか。

本当に分からないのか。

問題文を最後まで読んでいないだけなのか。

言葉の意味が分からないのか。

考えることが面倒になったのか。

間違えるのが怖いのか。

集中が切れているのか。

あるいは、先生に構ってほしいだけなのか(笑)。

幼児や小学校低学年を指導していると、

同じ「わかんない」でも、そこに含まれているものはまったく違います。

だから私たちは、表情、姿勢、手の動きを見る。

問題をどこまで読んだかを見る。

さっきまで何ができていたのかを見る。

そして、今、この子に必要なのは「説明」なのか。

それとも、「待つこと」なのかを考えます。


私たちは、教えすぎない

赤羽南教室では以前から、講師たちに、「教えすぎないでください」と伝えています。

これは、先生が楽をするためではありません(笑)。

むしろ、教えてしまった方が授業は楽です。

子どもが止まったら、「ここはこうやるんだよ」と説明する。

答えが出なければ、「こう考えればいいよ」と教える。

その方がテキストは速く進みます。

でも、それを繰り返していると、「分からなければ誰かに聞けばいい」という子どもを育ててしまうことがあります。

だから、すぐには教えません。

待ちます。

「もう一回読んでみようか」

と言うこともあります。

「これ、違う言葉で言うとどういう意味?」

と聞くこともあります。

前のページを見返させる。

図を書かせる。

積み木を触らせる。

そして時には、何も言わずに見ています。


AIが進歩するほど、「待つ」ことが難しくなる

これから、ここはかなり大きな教育問題になるのではないかと思っています。

今の子どもたちは、ほとんど何でも答えてくれる存在と一緒に育っていきます。

分からなければAIに聞けばいい。

「答えを教えて」と言えば答えてくれる。

「もっと簡単に」と言えば簡単にしてくれる。

「小学生にも分かるように」と言えば、さらに言い換えてくれる。

これは素晴らしいことです。

私自身、毎日のようにその恩恵を受けています。

でも同時に、一つ心配なことがあります。

人間は、「分からない状態」に耐えられるのだろうか。

ということです。


「分からない時間」には意味がある

私たちは、「分からない」という状態を、悪いことだと思いがちです。

でも私は、そうは思っていません。

分からない。

だから読む。

もう一度読む。

言葉を言い換える。

図を書いてみる。

前の問題を見る。

違う方法を試す。

間違える。

なぜ間違えたのか考える。

また試す。

それでも分からない。

もう少し考える。

そして突然、

「あっ!」となる。

この、「分からない」から「分かった」までの時間。

私は、ここに教育のものすごく大切な部分があると思っています。

長いし、大変だし、待つことに疲れることもあるのですが、それでも絶対に無くしてはいけない。

ところがAIは、その時間を一瞬で消すこともできます。

だからこそ、AIがすぐ答えをくれる時代には、あえてすぐ答えを与えない教育も必要になる。

そんな少し不思議な時代になるのではないでしょうか。


「考える」とは何か

私は以前から、「考える=自分の力でなんとかしようとすること」だと考えています。

難問が解けることだけを、「考える力」とは思っていません。

分からなくても、考える。

そして、簡単には他人に答えを求めない。

これも立派な「考える力」です。

AIが進歩すればするほど、

知識を持っていること以上に、

自分の力でなんとかしようとすること

の価値は上がっていくのではないかと思います。


「ChatGPTがあるのに、なぜ塾に通うのですか?」

これは、私たち自身にも厳しい問いです。

これから保護者の方が、

「月数千円でAIが教えてくれるのに、なぜ毎月塾代を払うのか」と考えるようになるのは当然だと思います。

その問いに、「人間が教えるからです」では、もう答えにならない。

「丁寧に説明します」でも弱い。

AIの方が丁寧かもしれません(笑)。

では、赤羽南教室に通う意味は何なのか。

私は、

自分で問題を読む。

すぐに「わからない」と言わない。

自分の言葉で言い換える。

試行錯誤を続ける。

簡単に諦めない。

そして、自分の力でなんとかしようとする。

そういう人を育てることだと思っています。

もちろん、算数ができるようになることも大切です。

私たちは算数塾です。

そこから逃げるつもりはありません。

先取りもします。

難しい問題にも挑戦します。

結果にもこだわります。

しかし、算数を使って、どういう人間を育てるのか。

そこまでが、これからの教育には問われるのだと思います。


私は高校生に「何になりたい?」とは、あまり聞きません

少し話がそれますが、私は長年、大学受験の数学を教えてきました。

高校生に授業をしているとき、よくする質問があります。

それは、「将来、何になりたい?」ではありません。

私が聞くのは、「どんな大人になりたい?」です。

この二つは、似ているようで、かなり違います。

「何になりたい?」と聞けば、職業の名前が返ってきます。

でも、「どんな大人になりたい?」と聞くと、生き方の話になります。

だから私は、ときどき高校生に聞きます。

毎日、「仕事行きたくないなあ」と言いながら会社に行っている大人。

仕事が終われば会社の愚痴。

上司の愚痴。

同僚の愚痴。

月曜日になれば、「また一週間始まっちゃったよ」と言って、金曜日が来るのだけを楽しみにしている。

そういう大人、かっこいいか?

と。

もちろん、仕事なんて楽しいことばかりではありません。

私だって、「今日は嫌だなあ」と思うことくらいあります(笑)。

腹が立つこともあります。

失敗することもあります。

疲れることもあります。

でも、それとは別の話だと思っています。


「大人になるのも、面白そうだな」

私は、生徒たちから見たときに、かっこいい大人でありたい。

そして、面白い大人でありたい。

もっと言えば、なんだかワクワクする大人でありたい。

と思っています。

何歳になっても、新しいものを面白がる。

知らないものが出てきたら、「なんだこれ?」と調べてみる。

AIが出てきたら、「こんなものは教育じゃない」と拒絶するのではなく、

とりあえず使ってみる。

使ってみて、「これはすごい」と思う。

そのうえで、「じゃあ、人間は何をすればいいんだろう」と、また考える。

仕事だってそうです。

もっと面白い教室にできないか。

もっと子どもたちが成長する方法はないか。

まだ何かできるんじゃないか。

そうやって、何歳になっても「次は何をやろう」と考えている大人でいたい。

生徒たちがそんな大人を見て、「大人になるのも、結構面白そうだな」と思ってくれたら、

私はそれも教育だと思っています。


子どもは、大人の言葉より、大人の生き方を見ている

「一生懸命やりなさい」

「挑戦しなさい」

「勉強しなさい」

「夢を持ちなさい」

大人はいろいろなことを子どもに言います。

でも、大人自身が毎日つまらなそうに生きながら、

子どもにだけ、「夢を持て」と言っても、なかなか伝わらないと思うんです。

だから私は、教育とは、子どもに何かを教えることだけではないと思っています。

私たち大人が、どう生きているかを見せること。

それも教育なんじゃないでしょうか。

そしてこれは、AIには代わってもらえません。


AIか、人間か、ではない

私は「AI教育か、人間教育か」という議論自体が、少し違うのではないかと思っています。

赤羽南教室でatama+を使っているのも、そのためです。

AIが得意なことはAIに任せる。

AIだからこそ正確にできる分析も使う。

AIだからこそできる個別最適化も使う。

そして、AIによって人間の時間が生まれたなら、その時間を人間にしかできない教育に使う。

子どもを見る。

待つ。

考えさせる。

失敗させる。

もう一度やらせる。

時には、温かい言葉や手で励ます。

時には、魂を込めて、注意する。

そして、自分でできた瞬間を一緒に喜ぶ。

さらに、一人の大人として、自分がどう生きているのかを見せる。

私は、こちらの方が大切だと思っています。


AIに勝つ塾をつくるつもりはありません

AIに負けない塾をつくろうとは思いません。

そもそも、AIと人間が競争する必要はない。

AIが上手にできることは、AIに任せればいい。

問題の解説。

つまずきの分析。

類題の作成。

知識の検索。

文章の添削。

これから、もっと多くのことができるようになるでしょう。

だからこそ、人間がいる教室では、人間にしかできないことを、もっと真剣に考えなければならない。

AIがすぐに答えを出してくれる時代に、私たちは、あえて答えを教えないことがあります。

少し遠回りさせることもあります。

なぜなら、答えを知ることより、自分の力でそこまでたどり着いた経験の方が大切なことがあるからです。


「塾代よりChatGPTを」。

そんな言葉が、塾を運営していた会社自身から出てくる時代になりました。

私は、このニュースを悲観的には見ていません。

むしろ、「塾とは、何のためにある場所なのか」

それをもう一度、私たち教育に関わる人間に問い直してくれているように思います。

答えを教える場所なのか。

問題を解けるようにする場所なのか。

それとも、自分の力でなんとかしようとする人を育てる場所なのか。

私たちはAIを使います。

これからもっと使うことになるでしょう。

でも、AIが何でも答えてくれる時代だからこそ、「自分で考える人」を育てたい。

そして、その子どもたちがいつか大人になったとき、

仕事の愚痴ばかり言いながら毎日を過ごすのではなく、

自分なりに面白いものを見つけ、

新しいことにワクワクし、

何歳になっても、「次は何をやろう」と考えている。

そんな大人になってくれたらと思っています。

だから私は、これからも生徒たちに聞き続けます。

「君は、どんな大人になりたい?」

そして、その質問をする以上、私自身も生徒たちから、「大人になるのも、結構面白そうだな」と思ってもらえる大人でありたい。

AI時代になっても、いや、AI時代になるからこそ。

そんな教育をする場所でありたいと思っています。


ChatGPT 画像 2026年9月29日 19_09_54.png

2026.09.28

先日から、ムーンショット計画について考えています。

2050年の日本は、いったいどんな社会になっているのだろう?

2050年といえば、ずいぶん先の未来のように聞こえますが、あと24年です。

私はその頃、82歳になっています(笑)。

今、りんご塾赤羽南教室に通っている子どもたちは、30歳前後。

社会の中心で働いている世代になっています。

では、その頃の子どもたちは、どんな勉強をしているのでしょうか。

大学入試はどうなっているのでしょうか。

先生という仕事は残っているのでしょうか。

少し真面目に考えてみました。


朝、目覚まし時計は鳴らない

2050年。

朝6時30分。

おそらく私は、目覚まし時計では起きていません。

睡眠、心拍、呼吸、体温などをAIが見ながら、「今日は6時27分に起こすのが最適である」と判断して、照明や室温を調整する。

起きれば、「睡眠時間は6時間42分。昨日より深く眠れています」などと言われるでしょう。

健康診断も、年に一度ではなくなっているかもしれません。

時計や衣服、ベッド、家の中のセンサーが身体の状態を常に見ている。

つまり、365日、健康診断をしているような生活です。


「検索する」という行為もなくなっているかもしれない

朝、ニュースを見ます。

いや、「ニュースを見る」という行為そのものがなくなっているかもしれません。

AIに、「今日、私が知っておくべきことは?」と聞く。

すると、教育、経済、教室、自動車、知人からの連絡などから、必要なものだけを整理して教えてくれる。

2026年の私たちは、Googleに言葉を入力して、検索結果からサイトを選んでいます。

2050年の若者にその話をしたら、「自分で検索してたんですか?」と言われるかもしれません(笑)。


それでも私はBMWで仕事に行っている気がする

ここだけは変わらないかもしれません。

2050年。

自動運転車が当たり前になっている街で、82歳の私がBMW E36を運転している。

若いスタッフから、「先生、それ自分で運転するんですか?」と聞かれる。

「当たり前だよ(笑)」と言う。

すると、「危なくないですか?」と言われる。

「昔は全員、自分で運転してたんだよ!」と説明する(笑)。

今から考えると不思議ですが、2050年には、自分で機械を操作すること自体が趣味になっている可能性があります。

馬が交通手段ではなくなっても、乗馬は残りました。

車も同じなのかもしれません。

そう考えると、E36は2050年になった方が面白い存在になっている気もします。


そして、2050年のりんご塾へ

ここからが本題です。

2050年の教室に、小学1年生がやってきます。

でも、「小学1年生だから、小学1年生の教材をやる」という考え方は、かなり薄くなっているのではないでしょうか。

AIはその子について、

計算は小3程度。

図形は小4程度。

語彙は小1程度。

文章読解は小2程度。

空間認識は非常に高い。

そんなことまで把握している。

そして、その子に必要な問題を、その場で作る。

そうなると、「何年生の勉強をしているのか」という考え方自体が、今ほど重要ではなくなります。

年長の子が小3の算数をやっていても、誰も驚かない。

むしろ、「理解しているなら、なぜ先に進まないの?」と言われる時代になっているかもしれません。


では、先生はいらなくなるのでしょうか

ここが私は一番面白いと思っています。

2050年のAIは、おそらく今とは比較にならないほど優秀です。

説明する。

問題を作る。

丸をつける。

間違いを分析する。

次にやる問題を決める。

保護者に学習状況を報告する。

これらは、ほとんどAIができるでしょう。

では、先生は何をするのか。

私は逆に、先生という仕事は、ものすごく人間的な仕事になるのではないかと思っています。


子どもが、「分かんない」と言う。

AIなら、すぐにヒントを出せます。

でも先生は、「いや、まだ教えなくていい」と判断する。

ある子が問題を間違える。

AIは正しい解き方を説明できる。

でも先生は、「この子は分からないんじゃない。考えるのを面倒くさがっているだけだな」と感じる。

逆に、「今日はいつもと違う。何かあったのかな」と思う日もある。

今ここで褒める。

ここでは待つ。

ここでは少し厳しくする。

今日は算数より、この子の話を聞く。

そういう判断です。


AIが賢くなるほど、「教えない先生」が必要になる

これは少し皮肉です。

AIは、聞けば何でも答えてくれます。

だから2050年の子どもたちにとって、「答えを知ること」は今よりずっと簡単になっています。

だからこそ、すぐに答えを聞かない力の方が重要になるのではないでしょうか。

分からない。

少し考える。

間違える。

もう一度やる。

違う方法を試す。

それでも分からない。

また考える。

その時間を奪わない人。

2050年には、そんな先生の方が貴重なのかもしれません。


大学入試も変わっていると思います

2050年にも大学入試はあるでしょう。

ただ、今と同じ形なのかは分かりません。

たとえば、「AIを自由に使ってよい入試」があっても私は驚きません。

問題には、「AIを使ってこの問題について調べなさい」と書いてある。

その代わり、

「なぜその回答を信用したのか説明しなさい」

「AIの回答の間違いを指摘しなさい」

「より良い回答を作りなさい」

と問われる。

今は、AIを使わずに何ができるかを測る試験が中心です。

2050年には、AIを使って何ができるかを測る試験があっても不思議ではありません。


そうなると、幼児教育の意味が変わってくる

ここまで考えていて、私は一つ面白いことに気づきました。

AIが進歩すればするほど、幼児期の教育が重要になるのではないかということです。

知識ならAIが教えてくれるます。

計算もしてくれる。

文章も書いてくれる。

英語にも訳してくれる。

では、人間には何が必要なのか?

「なぜ?」と思い、自分でやってみること。

失敗すること。

もう一度やること。

簡単に諦めないこと。

人の話を聞くこと。

約束を守ること。

自分の行動に責任を持つこと。

これは、AIに代わってもらうことができません。


2050年の教育は、ものすごくハイテクで、ものすごく人間臭い

私は、そんな未来になるのではないかと思っています。

教材はAIが作る。

一人ひとり違う内容を勉強する。

大学入試でもAIを使う。

車は自分で走る。

健康状態は24時間管理される。

社会のあらゆるところにAIがいる。

それでも教室では、一人の子どもが難しい問題を前にして、鉛筆を持ったまま考えている。

間違える。

消しゴムで消す。

もう一度書く。

先生は答えを言わない。

しばらく待つ。

そして子どもが、「もう一回やる」と言う。

私は、この場面は2050年になっても変わらないと思います。


2050年から逆算して、今の教育を考える

私は長い間、大学受験の指導をしてきました。

だから幼児や小学校低学年の子どもたちを見ている今も、「今日この問題ができたか」だけではなく、

この子が高校生になったとき、大学生になったとき、そして社会に出たときに何が必要なのかというところから考えてしまいます。

2050年がどんな社会になるのか。

もちろん、正確なことは誰にも分かりません。

ただ、一つだけ思います。

未来が変われば変わるほど、

自分で考えること。
約束を守ること。
簡単に諦めないこと。
人を思いやること。
自分の行動に責任を持つこと。

こういうものは、むしろ重要になるのではないでしょうか。

2050年。

私は82歳です。

今、教室に通っている子どもたちは30歳前後になっています。

もしかしたら、その頃、その子たちが自分の子どもを連れて教室に来ることがあるかもしれません。

「先生、うちの子もお願いします」と言われたら、私はたぶんこう答えます。

「いや、もう82なんだけど(笑)」

でも――。

その頃にも教室のどこかで、難しい問題を前に、「もう一回やる」と言っている子どもがいたらいいなと思います。

AIがどれほど進歩しても。

社会がどれほど変わっても。

人が本気になる教室。

そこだけは、2050年にも残っていてほしいと思っています。

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2026.09.27

先日、RINGOJUKU WORKSで、内閣府の「ムーンショット型研究開発制度」について書きました。

2050年までに、「人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」する。

その中では、人間の身体能力だけではなく、認知能力や知覚能力までテクノロジーによって拡張する研究が進められています。

前回の記事では、「そんな時代になったら、教育は何を教えるのだろう」ということを書きました。

ところが、記事を書いたあとも、この話がずっと頭に残っていました。

そして考えているうちに、もう一つの問いが出てきました。

人間が、今よりはるかに多くのことを「できる」ようになる。

それは素晴らしいことです。

でも――

「できないこと」がなくなっていく社会は、本当に人間にとって幸せなのだろうか。

今回は、そんなことを考えてみたいと思います。


「使わない自由」は、本当に自由なのか

たとえば将来、人間の認知能力を安全に拡張できる技術ができたとします。

記憶力を補える。

情報処理能力を高められる。

AIと連携して、今とは比較にならない速度で仕事ができる。

もちろん、最初は、「使いたい人が使えばいい」となるでしょう。

では、周囲のほとんどの人が使い始めたらどうでしょう。

能力を拡張した人なら1時間で終わる仕事に、自分は5時間かかる。

会社から見れば、当然生産性には差が出ます。

そんな社会で、「私は使いません」という選択は、本当に自由な選択であり続けられるのでしょうか。

少し似たことは、すでにあります。

スマートフォンを持つことは義務ではありません。

でも今、スマートフォンを一切使わずに生活しようとすると、かなり不便です。

誰にも強制されていない。

それでも、社会全体が使うことを前提に動き始めれば、

「使わない自由」は少しずつ小さくなっていく。

能力拡張技術でも、同じようなことが起こらないとは限りません。


子どもの能力を変えられるようになったら

教育に携わる人間として、私はこちらの方が気になります。

もし将来、子どもの記憶力を高められる。

計算能力を高められる。

情報処理能力を高められる。

そんな技術が安全に利用できるようになったとしたら。

親はどうするのでしょう。

「うちは使いません」と言うこともできます。

でも、周囲の子どもたちが使い始めたら。

学校の成績に差がつく。

入試にも影響する。

将来の職業選択にも影響する。

そんな状況になったとき、

親はきっと考えると思います。

「自分の考えを貫くことで、わが子を不利にしているのではないか」

これは難しい問題です。

誰かから強制されるわけではありません。

むしろ、子どもを大切に思うからこそ、使わざるを得ない。

そんな状況が生まれる可能性もあります。

私は、こちらの方が怖いと思っています。


「能力」をお金で買えるようになったら

もう一つ、大きな問題があります。

格差です。

今でも教育格差はあります。

家庭の経済状況。

住んでいる地域。

受けられる教育。

家庭にある本。

経験できること。

出会える大人。

さまざまな違いがあります。

では、もし将来、能力そのものを拡張する技術に大きなお金が必要になったらどうでしょう。

これまでは、「受けられる教育が違う」という格差でした。

それが、「使える能力そのものが違う」という格差になる可能性があります。

裕福な家庭ほど高度な能力拡張を利用できる。

その能力によって、さらに高度な教育を受ける。

より有利な仕事に就く。

そして次の世代にも、その環境を渡していく。

もちろん、そうならないための制度やルールも考えられていくでしょう。

でも、技術が人間の能力そのものに近づけば近づくほど、「誰がその技術を使えるのか」は非常に大きな問題になると思います。


では、「努力」とは何になるのだろう

私は数学を教えてきた人間なので、こんなことも考えます。

一人の生徒が、難しい数学の問題を30分考えて解いた。

もう一人は、拡張された認知能力によって30秒で解いた。

さて。

どちらを評価するのでしょう。

もっと言えば、入学試験そのものはどうなるのでしょう。

身体能力まで拡張できるなら、スポーツはどうなるのか。

AIと人間の認知が高度に連携するようになったら、仕事における、「この人は優秀だ」とは何を意味するのか。

才能。

努力。

能力。

実力。

これまで当たり前のように使ってきた言葉の意味そのものが変わるかもしれません。

そして、ここまで考えて、

私は教育者としてもっと気になることに行き着きました。


私が一番怖いのは、「失敗しなくていい社会」

今、りんご塾で子どもが難しい問題に出会ったとします。

試行錯誤を重ねるうちに、20分かかることもあります。

効率だけを考えれば、非常に悪いです。

先生が最初から解き方を教えれば、3分で終わるかもしれない。

AIなら数秒でしょう。

でも私は、その20分を無駄だとは思いません。

むしろ、その20分に教育があると思っています。


その20分で、何を学んでいるのか

子どもは、その20分間に算数だけを学んでいるわけではありません。

分からない状態に耐える。

自分で方法を探す。

やってみる。

失敗する。

違う方法を考える。

もう一度やる。

簡単に諦めない。

そして最後に、

できなかったことが、できるようになる。

こうしたものは、テストの点数にはなかなか表れません。

でも、人生を長く考えたらどうでしょう。

人生には、答えが分からない問題の方が圧倒的に多い。

仕事。

人間関係。

子育て。

進路。

生き方。

解法も解説もありません。

だから子どものうちに、「分からないけれど、自分でなんとかしてみる」

という経験を、私はたくさんしてほしいと思っています。


便利になることと、幸せになることは同じなのか

テクノロジーが進歩する。

失敗しなくて済む。

迷わなくて済む。

覚えなくても済む。

考えなくても済む。

苦労しなくても済む。

とても便利です。

私自身、便利なものは大好きです(笑)。

だから、昔の不便な時代に戻った方がいいと言いたいわけではありません。

ただ、一つだけ考えてしまいます。

便利になることと、幸せになることは、本当に同じなのだろうか。

人間は不思議です。

できなかったことができるようになると、うれしい。

分からなかったことが分かると、面白い。

負けると、悔しい。

失敗すると、工夫する。

苦労したから、達成したときに喜ぶ。

つまり私たちが「成長した」と感じる瞬間の多くは、その直前まで、何かができなかった時間の上に成り立っています。

だとしたら、「できない」を全部なくすことが、本当に人間を幸せにするのか。

私は、そこが少し分かりません。


子どもから「できない」を奪ってはいけない

これは2050年を待たなくても、今の教育にそのまま当てはまります。

子どもが困っている。

大人は助けたくなります。

分からないと言っていたら、教えてあげたくなります。

失敗しそうなら、失敗しないように先回りしたくなります。

親も先生も、その方が安心です。

でも、全部大人が取り除いてしまったら、子どもはいつ「困ったときに自分でなんとかする経験」をするのでしょう。

私は、子どもを困らせたいわけではありません。

失敗させたいわけでもありません。

ただ、失敗しても大丈夫な場所で、ちゃんと失敗させてあげたいと思っています。

教育とは、本来そういうものではないでしょうか。


「できる人」と「強い人」は違う

長く教育に関わっていると、勉強ができることと、人として強いことは同じではないと感じます。

難しい問題を解けても、失敗に極端に弱い子はいます。

知識が豊富でも、人とうまく関われないこともあります。

反対に、今はそれほど勉強が得意ではなくても、人の話を素直に聞ける。

失敗しても、もう一度やれる。

人に感謝できる。

約束を守れる。

困っている人に手を差し伸べられる。

そんな子もいます。

私は、後者を「勉強とは関係のない能力」だとは思っていません。

むしろ、長い人生では、非常に大きな力になると思っています。


能力が高くても、最後には「何に使うか」が残る

仮に2050年。

人間がテクノロジーによって、現在とは比較にならないほど高い能力を持てるようになったとします。

それでも、一つだけ残る問いがあります。

その能力を、何のために使うのか。

人を助けるためなのか。

自分だけが得をするためなのか。

新しいものを生み出すためなのか。

誰かを傷つけるためなのか。

能力を100倍にできたとしても、

その100倍の能力を何に使うか

まで、能力拡張技術が決めてくれるわけではありません。

そこを決めるのは、人間です。

だから私は、技術が進歩すればするほど、「人間を育てる教育」が必要になると思っています。


2050年を生きるのは、今の子どもたち

2050年というと、遠い未来に聞こえます。

でも、今6歳の子どもは、そのとき30歳です。

10歳なら34歳。

まさに社会の中心にいる世代です。

つまり2050年の社会を生きるのは、

今、私たちの目の前にいる子どもたちです。

だからこれは、未来技術だけの話ではありません。

今の教育の話でもあります。


「できるようになった」と「やった方がいい」は違う

ムーンショット目標1は、身体的・社会的制約を超えて多様な人が社会参加できるようにすることなどを目指した研究です。そこには、介護・育児を担う人、高齢者、障害のある人などの活動範囲を広げる可能性があります。また、研究では倫理的・法的・社会的な課題も扱われています。

私は、こうした技術そのものを否定したいわけではありません。

むしろ、人間の可能性を広げる素晴らしい技術がたくさん生まれると思います。

ただ、

「できるようになった」ことと、
「やった方がいい」ことは同じではありません。

技術的に可能になったとき、使うのか、使わないのか。

どこまで使うのか。

誰が使えるようにするのか。

使わない人の自由をどう守るのか。

それを考えるのは、結局人間です。


「できない」を経験できることが、贅沢になる未来

ここまで考えていて、ふと思いました。

もしかすると2050年には、

「できないことに時間をかけられる」こと自体が、贅沢になっているのかもしれません。

すぐに答えが出る。

AIが教えてくれる。

能力を補ってくれる。

失敗する前に予測してくれる。

そんな社会だからこそ、

分からない問題を20分考える。

失敗する。

悔しがる。

もう一度やる。

自分でできたと喜ぶ。

そんな一見非効率な時間に、大きな価値が生まれるのかもしれません。

だとしたら、今、りんご塾で子どもが問題の前で鉛筆を止めている時間も、決して無駄ではありません。

先生が横にいるのに、すぐには教えてくれない(笑)。

子どもは困る。

試す。

失敗する。

そして、自分で一歩進む。

私たちは、子どもから「できない」を全部取り上げない。

できないことを放置するのではありません。

できないことと向き合い、自分の力で「できる」に変える時間を残しておく。

それはもしかすると、これからの教育でますます大切になるのではないでしょうか。

私が昔から大切にしてきた言葉があります。

毎度のことで恐縮ですが、
「人間的成長なくして、学力の向上なし」なんですよ、やっぱり。

今回もまた、この言葉に戻ってきました。

2050年には、「学力」という言葉の意味さえ、今とは大きく変わっているかもしれません。

それでも、「人間的成長」だけは、誰かに代わってもらうことができない。

そして私はもう一つ、「できない」を自分で「できる」に変えた経験も、誰かに代わってもらうことはできない。

そう思っています。

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2026.09.26

先日、内閣府が進めている「ムーンショット型研究開発制度」というものを知りました。

正直に言います。

かなり驚きました。

名前だけは以前から聞いたことがありました。

でも、実際に国が掲げている目標を読んでみると、私が想像していたものとはまったく違いました。

特に驚いたのが、「ムーンショット目標1」です。

そこには、「2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」とあります。
詳細:科学技術振興機構 プログラム紹介

最初に読んだとき、

「これ、本当に国の研究開発目標なの?」と思いました(笑)。

SF映画の設定ではありません。

日本で実際に進められている研究開発です。

そして読み進めていくうちに、私は技術そのものとは別のことが気になってきました。

そんな時代になったら、教育って何をするんだろう。


1人で10体以上のアバターを操る

研究されているものの一つに、「サイバネティック・アバター」があります。

単なるインターネット上の分身ではありません。

身体の代わりとなるロボットや3D映像などに加えて、人間の身体能力、認知能力、知覚能力を拡張するICTやロボット技術まで含む概念です。

現在掲げられている目標では、2030年までに、1つのタスクについて1人で10体以上のアバターを操作する技術を開発する。

そして2050年までには、希望する人が身体的能力だけでなく、認知能力や知覚能力まで拡張できる技術を目指しています。
詳細:ムーンショット型計画 目標1

もちろん、これは「2050年には必ずそうなっている」という予言ではありません。

あくまで研究開発目標です。

実際にどこまで実現するのかは、私には分かりません。

でも私は、これを読んで考えてしまいました。

もし本当にそんな時代が来たら、「頭がいい」とは、いったい何を意味するのだろう。


「たくさん知っている人」が頭のいい人だった

私が子どもの頃、知っていることそのものに大きな価値がありました。

分からない言葉があれば、辞書を引く。

何かを調べたければ、図書館へ行く。

計算は、自分でする。

文章は、自分で書く。

知識や技能を身につけるには、それなりの時間と努力が必要でした。

それが、インターネットによって変わりました。

スマートフォンによって、さらに変わりました。

そして今、AIによってもう一度大きく変わろうとしています。

調べる。

比較する。

要約する。

翻訳する。

文章を書く。

計算する。

プログラムを書く。

以前なら人間が時間をかけてやっていたことの一部を、テクノロジーがものすごい速さで補ってくれるようになりました。

それでも今はまだ、「AIを使う人間」と「AI」は分かれています。

では将来、人間の認知能力そのものまでテクノロジーで拡張できるようになったらどうでしょう。

たくさん覚えている。

速く計算できる。

大量の情報を処理できる。

そうした能力だけを競わせる教育は、今と同じ意味を持ち続けるのでしょうか。


だから「勉強しなくていい」にはならない

ここは誤解されたくありません。

私は、「AIがあるんだから、もう勉強なんてしなくていい」とはまったく思っていません。

むしろ逆です。

考えるためには、材料が必要です。

語彙を持っていなければ、自分の考えそのものをつくることが難しい。

数学の基本的な概念を知らなければ、高度な数学について考えることもできません。

歴史を知らなければ、今起きていることを過去と比較することも難しい。

何も知らない人がAIを持った瞬間、突然深く考えられる人になる。

そんな単純な話ではないと思います。

だから、知識を学ぶ。

計算する。

文章を読む。

言葉を覚える。

数学を学ぶ。

これはこれからも必要でしょう。

ただし、「何を学ぶか」と同じくらい、「何のために学ぶのか」が重要になる。

私はそう思っています。


能力を拡張できたら、何に使うのか

ここで、私が一番考えさせられたところです。

もし本当に、人間の能力をテクノロジーによって大きく拡張できるようになったら。

身体能力を拡張できる。

認知能力を拡張できる。

AIが膨大な知識を補ってくれる。

複数のロボットを遠隔操作できる。

だとしたら最後に問われるのは、「その力を、何に使うのか」ではないでしょうか?

能力が高いことと、その能力を正しく使えることは同じではありません。

賢いことと、思いやりがあることも同じではありません。

強い力を持つことと、その力に責任を持てることも同じではありません。

テクノロジーが人間の能力を大きくしてくれるなら、その能力を使う人間の側も育っていなければならない。

むしろ私は、こちらの方が重要になるような気がします。


「人間的成長なくして、学力の向上なし」

私は以前から、「人間的成長なくして、学力の向上なし」という言葉を大切にしてきました。

勉強ができれば、それでいいとは思っていません。

一方で、「人間性が大切だから、勉強なんてできなくてもいい」という意味でもありません。

私は、この二つをあまり別々のものだと考えていません。

すぐに分からなくても考える。

失敗しても、もう一度やる。

人の話を最後まで聞く。

自分の言葉で説明する。

約束を守る。

自分の行動に責任を持つ。

こうした力は、人として生きていくために必要です。

そして同時に、難しい勉強をするためにも必要です。

ところがムーンショット計画が描く未来を見ていると、この言葉が少し違って見えてきました。

もし、知識や能力の一部をテクノロジーが大きく補ってくれる時代が来るのなら、

「どれだけ能力があるか」以上に、「その能力をどう使う人なのか」が教育に問われる。

そんな時代になるのかもしれません。


だから、今もすぐに答えを教えない

ここで、ずいぶん未来の話から、赤羽の小さな教室に戻ります(笑)。

りんご塾赤羽南教室では、子どもが問題に詰まったとき、すぐに答えを教えないことを大切にしています。

効率だけを考えれば、先生が解き方を教えてしまった方が圧倒的に速い。

でも、それを繰り返していると、「分からないものに出会ったとき、自分はどうするのか」を経験する時間がなくなります。

私たちが育てたいのは、「この問題の解き方を知っている子」だけではありません。

分からないものに出会ったとき、「さて、どうしよう」と考えられる人です。


2050年を生きるのは、今の子どもたち

2050年。

ずいぶん先の未来のように感じます。

でも、今6歳の子どもは、そのとき30歳です。

今10歳なら34歳。

まさに社会の中心で働いている世代です。

つまり、2050年の社会は、今、私たちが教えている子どもたちの社会です。

そう考えると、ムーンショット計画は、私にとって単なる科学技術の話ではなくなりました。

私たち教育に携わる人間が、「この子たちに、何を残すのか」を考える話になります。

計算が速い。

たくさんのことを知っている。

難しい問題を解ける。

もちろん、どれも素晴らしいことです。

でも、それだけで2050年を生きていけるのだろうか。

私は、そんなことを考えました。


もし「能力」が買える時代になったら

少し極端な想像をしてみます。

将来、テクノロジーによって能力を拡張することが、今スマートフォンを持つことと同様に、当たり前になったとします。

記憶を補える。

判断を補える。

知覚を拡張できる。

身体能力まで補える。

そうなったとき、入試得点は何を競わせるのでしょう。

誰が一番速く計算できるか。

誰が一番多く覚えられるか。

誰が一番速く情報を処理できるか。

そこだけを競っても、機械にはかなわないかもしれません。

でも、

何を大切にするのか。

何を選ぶのか。

人とどう関わるのか。

失敗したときどうするのか。

自分の力を何のために使うのか。

そこまで機械に決めてもらったら、では、人間は何をするのでしょう。


未来を考えたら、ものすごく昔ながらの教育に戻ってきた

2050年、本当に人間が「身体、脳、空間、時間の制約」から解放されているのか。

私には分かりません。

研究がどこまで実現するのかも分かりません。

ムーンショット目標1自体も、能力拡張だけではなく、少子高齢化や労働力不足への対応、介護や育児をする人、高齢者や障害のある人などが社会参加しやすくすることを目的に研究されています。安全性や倫理・制度面の課題も研究対象です。

だから、この未来を単純に「怖い未来」と見るつもりもありません。

ただ、教育者として一つだけ強く感じました。

テクノロジーが人間の能力を補ってくれるようになればなるほど、教育は、「能力を与えること」だけでは足りなくなる。

自分で考える。

失敗から学びを得る。

人を思いやる。

約束を守る。

自分の行動に責任を持つ。

そして、自分の持っている能力を、何のために使うのかを考える。

そんな教育が、むしろ今まで以上に必要になるのではないでしょうか。

最先端の研究計画を読んでいたはずなのに、最後に私がたどり着いたのは、「人を育てる」という、ものすごく昔ながらの教育でした。

なんだか不思議です。

でも2050年を生きる子どもたちを目の前にすると、私は、この昔ながらの部分こそ、これからの教育で一番新しくなるのかもしれない。

そんなことを考えています。

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2026.09.25

こんにちは!
東木です。

先日、長谷先生から、予備校講師の先生たちの話を聞きました。

長谷先生は長く予備校で授業をしているので、これまで本当にたくさんの先生を見てきたそうです。

予備校講師というと、私にはまず「授業が上手な先生」というイメージがあります。

でも長谷先生によると、それだけではなく、授業が始まる前の行動にも、先生によってものすごく個性が出るのだそうです。

その話が、私にはとても面白く感じました。

1時間前から教室にいる先生

ある先生は、とにかく早い。

授業開始の1時間ほど前には、もう教室にいる。

そして板書まで始めている。

それが朝8時から始まる授業でも同じなのだそうです。

......朝8時の授業の1時間前。

7時ですよね(笑)。

生徒が教室に入ってくる頃には、先生はすでにそこにいて、黒板も準備されている。

そういうスタイルです。

ところが、まったく逆の先生もいる。

どんな時間の授業でも、教室に入ってくるのは開始の数分前。

毎回だいたい3分前くらいにババーンと現れて、そのまま流れるように授業を始める。

私は最初、「単に時間に余裕を持っているか、早く来るかっていう違いですか?」くらいに思っていました。

でも、どうもそんな単純な話ではないようです。

何時に着くかと、何時に教室へ入るかは別の話

長谷先生によると、予備校講師の先生たちは、授業前の時間の使い方もそれぞれなのだそうです。

教室に早く入って準備をする先生もいれば、

校舎の近くにはとっくに着いているのに、喫茶店などで時間を調整してから教室へ向かう先生もいる。

つまり、生徒から見て「3分前に来た先生」が、本当に3分前に到着したとは限らない。

ということです。

ずっと前に近くまで来ていて、そこで自分なりの準備をしているのかもしれない。

授業の内容を確認しているのかもしれない。

コーヒーを飲んで気持ちを整えているのかもしれない。

そして、「よし、行こう」となったところで教室に入る。

長谷先生は、こういうものも含めて、「予備校講師の魅せ方」なんだと言います。

授業が始まる瞬間に、自分を一番いい状態にする

さらに面白かったのが、予備校講師の先生たちは、授業が始まる時間に合わせて、自分のモチベーションをどう作っていくかということまで考えている、という話です。

考えてみれば当然なのかもしれません。

朝から眠い日もある。

疲れている日もある。

気分が乗らない日だってあるでしょう。

でも、生徒には関係ありません。

授業が始まれば、その瞬間から先生です。

しかも予備校なら、たくさんの生徒を一気に自分の授業へ引き込まなければならない。

だから、授業開始の瞬間に、自分の集中力や気持ちをどこまで持っていけるか。

そこから逆算して、授業前の時間を使う。

早く教室へ入る先生。

直前まで別の場所で過ごす先生。

静かに準備する先生。

それぞれ自分なりのやり方がある。

予備校講師の世界って、授業が始まる前から、ずいぶん奥が深いんですね(笑)。

さすが、プロフェッショナル!

そして長谷先生は、とにかく早い

では、長谷先生自身はどうなのか。

これは予備校時代に限らず、今も変わりません。

とにかく早いです(笑)。

授業だけではありません。

仕事の打ち合わせでも、誰かとの待ち合わせでも、とにかく早い。

ほぼ必ず、かなり前に、現地へ着いています。

長谷先生は車で移動することが多いので、

道路が混んでいるかもしれない。

事故渋滞があるかもしれない。

駐車場が空いていないかもしれない。

そういうことまで考えて、かなりの余裕を持って出発するそうです。

でも以前、この話をしたときに、「遅刻しないためだけじゃない」と言われました。

「遅れそう」になった時点で不利なんだよ

長谷先生が言うには、遅れるかもしれない状態になった時点で、自分が精神的に不利になるのだそうです。

例えば、大事な人と会うとき。

時間ギリギリで、

「間に合うかな」

「あと5分しかない」

と思いながら向かっていたら、その時点で気持ちに余裕がない。

もし本当に遅刻してしまえば、「すみません、遅れました」から話を始めなければならない。

本題に入る前から、自分で自分を不利な状態にしている。

それが嫌なんだそうです。

授業も同じ。

開始時間ギリギリに教室へ入って、「間に合った!」では、長谷先生にとってはダメ。

気持ちに余裕がないまま授業を始めれば、普段ならしないようなミスをするかもしれない。

話す順番を間違えるかもしれない。

思ったような授業ができないかもしれない。

だから、ずっと前に行く。

そして以前、さらっとこんなことを言われました。

「5分前でも、俺にとっては遅刻だから」

......。

いや、5分前は遅刻じゃないです(笑)。

でも、私もやってみました

ただ、この話を聞いてから、私も大学生以降、待ち合わせや仕事にはかなり余裕を持って行くようになりました。

30分前。

場合によっては1時間前。

最初は単純に、「長谷先生に言われたし、遅れないようにしよう」というくらいだったと思います。

ところが実際に続けてみると、長谷先生が言っていたことが、少しずつ分かるようになってきました。

早く着くと、当然時間があります。

そこで、今日は何を話そうかな。

こういう話になったら、こう答えようかな。

仕事なら、もう一度資料を見ておこうかな。

なんとなく、その後の流れを頭の中でシミュレーションすることもできます。

時間になったときには、もう気持ちが落ち着いている。

一方で、

「あと3分!」「間に合うかな!」「遅れたら、なんて言おう!」

と思いながら向かっているときは、目的地へ着くことしか考えられません。

仮に間に合ったとしても、身体は着いているけれど、気持ちは猛ダッシュ中。

そんな感じになる。

同じ「時間通り」でも、全然違うんですよね。

授業は、始まる前から始まっているのかもしれない

そう考えると、最初に聞いた予備校講師の先生たちの話も、少し違って見えてきました。

1時間前から教室にいることが偉いわけではない。

3分前に教室へ入ることが悪いわけでもない。

大切なのは、自分が一番いい状態で授業を始めるために、どうやって自分を作っているのか、なのかもしれません。

早く教室に入って黒板を書くのも一つ。

近くの喫茶店で一人になるのも一つ。

授業の流れを頭の中で確認するのも一つ。

そして、あえて授業開始直前に教室へ入ってくるのも、その先生なりの「魅せ方」なのかもしれない。

授業はチャイムが鳴ってから始まるものだと思っていました。

でも先生にとっては、そのずっと前から、もう授業は始まっている。

そんなことを長谷先生の話を聞きながら考えました。

私たちの教室でも、相手は幼児や小学生ですが、そこは同じなのかもしれません。

疲れている日もあります。

いろいろあって気持ちが落ち着かない日もあります。

でも、子どもたちには関係ありません。

その子にとっては、その日に目の前にいる先生が、その日の先生です。

だったら、子どもの前に座るときには、できるだけいい状態でいたい。

授業の準備って、教材を用意したり、問題を確認したりすることだけではないんですね。

自分自身を授業のできる状態にしておくことも、準備の一つなのかもしれません。

そして最近では私も、

「5分前でも、俺にとっては遅刻だから」

という、最初は「言いすぎでしょ~!」と思ってた長谷先生の言葉が、なんとなく分かるようになってきました(笑)。

時計の上では、もちろん5分前は遅刻ではありません。

たぶん長谷先生が言っているのは、いい仕事をするための余裕を、自分で先につくる。

そういうことなんだと思います。

だから私も、今では約束の30分前、場合によっては1時間前には着くようにしています。

ただですね。

一つだけ、どうしても分からないことがあります。

私が毎回、約束の時間より1時間早く行っても、もう長谷先生がいるんですけど。

ほんとに、どういうことなんですか???(笑)

2026.09.24

私は長く、高校生の大学受験を指導してきました。

その中で、最近よく考えることがあります。

高校生に、「なぜ、その大学のその学部に行きたいの?」と聞いたときのことです。

もちろん、しっかりした理由を持っている生徒もいます。

でも実際には、自分がその大学、その学部を選んだ理由を、自分の言葉できちんと説明できる高校生は、それほど多くありません。

「なんとなく興味があるから」

「楽しそうだから」

「就職に良さそうだから」

「親に勧められたから」

「学校の先生に合っていると言われたから」

そんな答えが返ってくることもあります。

私は、そこでさらに聞きます。

「何に興味があるの?」

「その学部では、具体的に何を勉強するの?」

「同じような学部がある大学と、何が違うの?」

すると、答えられなくなることがあります。

今年、こんなこともありました。

「雰囲気がよかったから、この大学にしました」

ある高校生に、「どうして、この大学にしたの?」と聞きました。

すると、「オープンキャンパスに行ったら、雰囲気がよかったからです」と答えました。

それ自体は、もちろん悪い理由ではありません。

大学は4年間通う場所です。

キャンパスの雰囲気。

学生の様子。

先生との距離。

施設。

通学環境。

実際に行ってみなければ分からないことはたくさんあります。

ですから私は、「そうなんだ。オープンキャンパスは何校くらい行ったの?」と聞きました。

すると、「1校です」と、堂々と答えました。

私は思わず、「1校だけ?」と聞き返しました。

そして、

「何校か行って、その中で『ここが一番雰囲気がよかった』なら分かるよ。でも1校しか見ていないのに、『雰囲気がよかったからここに決めた』って、選び方としてちょっとおかしくない?」

と言いました。

ものすごく嫌な顔をされました(笑)。

でも私は、その大学が悪いと言っているわけではありません。

その大学に行くな、と言っているわけでもありません。

自分で選ぶなら、ちゃんと選んでほしい。

ただ、それだけなんです。

何と比べて「よかった」のか

この話で私が気になったのは、「雰囲気で大学を決めたこと」ではありません。

比較する対象がないことです。

1校しか見ていない。

それなのに、「雰囲気がよかった」と言う。

では、何と比較して「よかった」と判断したのでしょう。

もちろん、自分が想像していた大学のイメージと比較したのかもしれません。

それでも、その大学が自分に合っているかを判断するのであれば、違う大学も見てみた方がいい。

2校見れば、違いが分かります。

3校、4校と見れば、

「私はこういう大学が好きなんだ」という自分の基準も、少しずつ見えてきます。

比較することで初めて、自分が何を大切にしているのかも分かってくるのです。

「自分で決めた」だけで、主体的なのだろうか

今の教育では、

「本人の意思を尊重する」

「自分で進路を決める」

「主体的に進路を選択する」

ということが、とても大切にされています。

私も、それには賛成です。

親や先生が大学を決めてしまうより、自分の人生なのだから、自分で決めた方がいい。

でも私は、「本人が自分で決めた」という事実だけで、それを主体的な選択と呼んでいいのだろうかと思うことがあります。

1校しか知らない。

他の大学を調べていない。

その学部で何を学ぶのかも、よく分かっていない。

卒業後にどんな道があるのかも知らない。

それでも、

「本人が行きたいと言っているから」

という理由で、その決定を尊重する。

それは、本当に本人の主体性を大切にしていることになるのでしょうか。

知らないものは、選べない

私は、ここがとても重要だと思っています。

知らないものは、選べません。

知らない大学は、志望校になりません。

知らない学問は、学びたい学問になりません。

知らない職業は、将来の夢にはなりません。

知らない生き方は、自分の人生の選択肢には入りません。

選択肢が三つしか見えていない人に、

「好きなものを自由に選んでいいよ」

と言えば、確かに本人が選んだことにはなります。

でも、本当はその外側に100の選択肢がある。

本人は、その存在すら知らない。

それを、「主体的に選択した」と言っていいのでしょうか。

高校生は、本当に大学を「選べる」のか

今、多くの高校では、

「大学で何を学びたいのか」

「将来、何をしたいのか」

「どんな仕事に就きたいのか」

を早い段階から考えさせます。

もちろん、それ自体は悪いことではありません。

ただ私は、高校生を長く見てきて思います。

その問いに答えるだけの材料を、私たち大人は彼らに渡してきたのでしょうか。

大学にどんな学問があるのか。

経済学と経営学は何が違うのか。

理学部と工学部では何が違うのか。

文学部では何を研究するのか。

大学によって同じ名前の学部でも何が違うのか。

そして、その先にどんな世界があるのか。

それをほとんど知らない高校生に、「あなたは何を学びたいですか?」と聞く。

考えてみれば、ずいぶん難しい質問です。

就職だって同じです

これは大学選びだけの話ではありません。

大学生になれば、今度は就職活動が始まります。

「どんな仕事がしたいですか?」

「どんな会社で働きたいですか?」

「あなたのキャリアプランは?」

と聞かれます。

でも、22歳の若者が、世の中の仕事をどれだけ知っているのでしょう。

営業とは何をする仕事なのか。

経理とは何なのか。

商品開発。

研究。

設計。

生産管理。

物流。

人事。

広報。

IT。

公務員。

起業。

大企業で働くこと。

中小企業で働くこと。

そもそも会社がどうやって利益を出し、その利益から人を雇い、給与を払い、組織を維持しているのか。

社会に出たことのない若者には、知らないことの方が圧倒的に多い。

その状態で、「自分らしい仕事を主体的に選びましょう」と言われても、簡単ではありません。

「やりたいことがない」のは、本人だけの問題なのか

高校生や大学生が、「やりたいことが分かりません」と言うことがあります。

すると大人は、「もっと自分の将来を真剣に考えなさい」と言いたくなります。

でも最近、私は少し違う見方もしています。

もしかすると、考えるための材料が足りないのではないか。

やりたいことがないのではなく、やりたいと思えるほど、世界を知らない。

そういうこともあるのではないでしょうか。

だとすれば、

「自分で決めなさい」

と言う前に、大人がやらなければならないことがあります。

選択には、「知る」が先にある

私は、選択には順番があると思っています。

知る。
経験する。
比べる。
考える。
迷う。
そして、選ぶ。

最初から「選ぶ」ではありません。

ところが、「主体性」という言葉を大切にしすぎるあまり、

大人が何かを勧めること、

大人が知らない世界を見せること、

「それ、本当に考えた?」と問い返すことまで、

子どもの主体性を邪魔することのように扱われることがあります。

私は違うと思っています。

子どもがまだ知らない世界を見せること。

それは、大人の大切な役割です。

「なぜ?」と聞くことは、選択を否定することではない

私は高校生に、「なぜ、その大学なの?」と聞きます。

「なぜ、その学部なの?」

「他の大学は調べた?」

「同じことを学べる大学はないの?」

「卒業したら何をしたいの?」

と聞きます。

別に、困らせたいわけではありません。

本人の選択を否定したいわけでもありません。

むしろ逆です。

その選択を、本当に本人のものにしてほしい。

だから聞くのです。

自分で決めるということは、「これにしました」と言うことではありません。

少なくとも私は、「なぜ、それを選んだのか」を自分の言葉で説明できるところまで考えてほしいと思っています。

そして、この話は幼児教育につながっています

ここまで大学や就職の話を書いてきました。

でも、これは高校生になって突然始まる話ではないと思っています。

自分で情報を集めて、考える。

違いを見つけ、比較する。

分からなければ調べ、自分の考えを言葉にする。

うまくいかなければ、もう一度やり方から考える。

こうした力は、18歳になった瞬間に突然身につくものではありません。

幼い頃から少しずつ育てていくものです。

だから、りんご塾赤羽南教室では、

「自主性を大切にする=何でも子どもに自由に選ばせる」とは考えていません。

「やりたくない」も、そのまま答えにはしない

子どもが、「やりたくない」と言うことがあります。

もちろん、その気持ちは受け止めます。

でも、「本人がやりたくないと言っていますから、やらせません」とは、必ずしも考えません。

なぜなら、その子はまだ、やった先に何があるのかを知らないからです。

難しそうだから嫌なのかもしれない。

初めてだから不安なのかもしれない。

できない自分を見たくないのかもしれない。

単に面倒なのかもしれない。

それでもやってみたら、「あれ、面白い」となることがあります。

昨日できなかったことができたとき、ものすごく嬉しそうな顔をすることがあります。

だから、ときには大人が、「これはやってみよう」と言うことも必要です。

それは、主体性を奪うことではないと思っています。

将来、自分で選べるものを増やしている。

私はそう考えています。

赤羽南で考える「自主性」

私たちが考える自主性は、「好きなことを自由にやること」ではありません。

先生に言われなくても、自分から始める。

次に何をするのか、自分で考える。

分からない問題でも、すぐに「教えて」と言わず、まず自分でなんとかしてみる。

使ったものを片づける。

約束を守る。

やると決めたところまではやる。

そうした、「自分から動ける力」を自主性だと考えています。

赤羽南で考える「主体性」

そして主体性は、自主性のその先にあると思っています。

何をするべきなのかを考える。

なぜそうするのかを考える。

いくつかの方法を比べる。

自分で選ぶ。

うまくいかなければ修正する。

そして、自分が選んだことに責任を持つ。

だから私たちは、難しい問題が出てきたとき、すぐに解き方を教えません。

「分からない」と言われたら、

「何が分からない?」

「問題には何て書いてある?」

「今までやったことで使えそうなものはない?」

と問い返します。

考える仕事を、子どもから奪わないためです。

ただし、放っておくわけではありません。

見て、必要なら手を貸します。

そして、自分でできることは、少しずつ本人に返していきます。

私は、

他律から自律へ。
自律から自主性へ。
自主性から主体性へ。

という流れがあると思っています。

「選ばせる」前に、「選べる人」を育てる

18歳になったとき、「どの大学に行く?」と聞かれる。

22歳になったとき、「どんな仕事をする?」と聞かれる。

その先にも、人生には何度も大きな選択があります。

そのときに、

「なんとなく」

「みんながそうしているから」

「最初に見たところがよかったから」ではなく、

いろいろなものを知り、

比べ、

考え、

迷い、

最後に、

「私は、これを選ぶ」

と言える人になってほしい。

そのために必要なのは、幼い頃から何でも本人に選ばせることではないと、私は思っています。

たくさんの言葉を知る。

たくさんのことを経験する。

知らない世界に触れる。

難しいことにも挑戦する。

人の話を聞く。

比較する。

自分の考えを言葉にする。

そして、少しずつ自分で決める範囲を広げていく。

「選ばせる」前に、「選べる人」を育てる。

それが、私たちが赤羽南で考えている自主性、そして主体性の教育です。


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2026.09.20

先日、RINGOJUKU WORKSで、私が中学生の頃に通っていた塾について書きました。

多磨学院。

東府中と府中に教室があった、今から50年近く前の塾です。

前の記事は、ほとんど私の記憶だけで書きました。

何しろ50年近く前の話です。

インターネットで検索しても、ほとんど情報が出てこない。

ですから書きながら、「本当にこんな塾だったのかな(笑)」と、自分でも少し思っていました。

ところが記事を書いたあと、見つけてしまいました。

多磨学院のFacebookページを。

しかも、昔の写真が大量に残っています。

教室。

先生たち。

生徒たち。

山。

山荘。

川。

一枚ずつ見ていくうちに、「あった!これだ!」の連続になりました。

そして分かったことがあります。

私の記憶は、大げさではありませんでした。

むしろ、記憶より、もっとめちゃくちゃな塾でした(笑)。

あの山荘が残っていた

前の記事で、多磨学院の合宿について書きました。

塾長の運転する車で山へ行く。

車の中では、みんなで声が枯れるほど歌う。

寝具がないのでシュラフを持っていく。

鍋と固形燃料も持っていく。

川の水を汲んで、インスタントラーメンを作る。

Facebookには、その山荘の写真が残っていました。

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八ヶ岳だったのか、奥多摩だったのか。

そこまで正確には覚えていません。

でも建物を見たら、「ああ、ここだ」となりました。

山荘の中で勉強している写真まであります。

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川もあった

そして、山荘の近くの川。

IMG_3710.jpg

これも覚えています。

ここで顔を洗いました。

そして、この川の水を汲んでラーメンを作りました。

Facebookには、その様子まで残っています。

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今なら、「その水、そのまま使って大丈夫なの?」

となるのでしょうが(笑)、当時そんなことを気にした記憶はありません。

水を汲む。

火をつける。

ラーメンを作る。

食べる。

それだけでした。

どうやら毎週、誰かが山へ行っていた(笑)

Facebookを見ていて、これにも驚きました。

一人の生徒が山へ行くのは年に数回だったとしても、多磨学院全体では、毎週のように、どこかのクラスが山へ出かけていたようです。

毎週です(笑)。

写真を見ると、山荘だけではありません。

南アルプス。

毛無山。

日杵山。

いろいろな山へ行っています。

教師と生徒が一緒に登っている。

改めて見ると、ここは塾なのか、山岳部なのか分かりません(笑)。

歌まで残っていた

さらに、こんなものまでありました。

IMG_3714.jpg

「多磨塾ソング集」です(笑)。

山へ向かう車の中では、本当にみんなで歌いました。

声が枯れるくらい歌う。

今回曲名を見て、「ああ、これも歌った」と、また記憶が戻ってきました。

50年近く経って、まさか歌まで出てくるとは思いませんでした。

そして、ファイトコール

多磨学院には、ファイトコールというものがありました。

ただし、決まった時間にやるわけではありません。

授業中、先生が、

「今日はこいつら、たるんでいる」

と感じる。

すると突然、プチッ。

教室の電気が消されます。

先生の話が始まる。

だんだん熱くなる。

そして最後は、

「KKファイト!」

「オー!」

「ファイト!」

「オー!」

これで気合いを入れ直して、また勉強します。

ところが、今回Facebookを見ていて思い出しました。

これには上がありました(笑)。

合宿中、もっとたるんでいると、

山荘の外へ連れ出されてファイトコール。

IMG_3748.jpg

さらに、もっともっとたるんでいると、

川へ連れて行かれてファイトコール(笑)。

IMG_3749.jpg

この写真を見つけたときは笑いました。

本当にやってるじゃないか(笑)。

自分の記憶の中で、多少話が大きくなっているのかと思っていました。

全然そんなことはありませんでした。

むしろ写真の方がすごい(笑)。

先生たち、大学生だったのか......

もう一つ驚いたのが、先生たちです。

Facebookによると、多磨学院の教師には、大学生や大学院生が大勢いたそうです。

これは知りませんでした。

中学生だった私から見ると、先生たちは完全な「大人」でした。

怖い。

授業は速い。

姿勢が悪ければ怒られる。

たるんでいれば電気を消される。

場合によっては川まで行く(笑)。

今の私から考えれば、20歳そこそこの先生もいたわけです。

それを知ったのも、今回の大きな驚きでした。

深夜1時、2時まで勉強していたらしい

府中のけやき並木にあった教室についての投稿には、深夜1時、2時まで生徒が残って勉強していたという話までありました。

そして生徒が帰ったあと、学生教師たちは、寝ないで八ヶ岳へ登山に行ったりしていた。

......。

これはもう、よく分かりません(笑)。

でも、「多磨学院ならありそう」と思えてしまうところが怖いです。

記憶より、もっとめちゃくちゃだった(笑)

今回Facebookを見つけて、一番安心したのは、私の記憶が間違っていなかったことです(笑)。

山へ行った。

川の水でラーメンを作った。

みんなで歌った。

突然電気を消された。

ファイトコールをした。

山荘の外でもやった。

川の中でもやった。

そして、ものすごく勉強した。

全部、本当にあったようです。

むしろ、私が忘れていたことの方が多かった(笑)。

50年近く経ってから、まさかこんな写真を見ることになるとは思いませんでした。

まだFacebookには、かなりの数の写真が残っています。

前の記事を書いたときには、「めちゃくちゃな塾だったなあ(笑)」と思っていました。

訂正します。

私が覚えていた以上に、めちゃくちゃで、生徒に対して超本気な塾でした(笑)。

そして――

私はやっぱり、全てに本気なこの塾が好きだったんだと思います。




2026.09.19

2026年10月の休館日をお知らせいたします。


10月の休館日は、
毎週日曜日、月曜日、29日、30日、31日です。

お間違いのないよう、お気をつけください。

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年間スケジュール表も記載していますので、併せてご確認ください。
赤羽南教室_年間スケジュール(2026-27年)確定-page-00001.jpg

2026.09.19

皆さんこんにちは!

東木です!

昨日、RINGOJUKU WORKSで、長谷先生がこんな記事を公開しました。

50年前、私が「本気になる教室」で教わったこと

長谷先生が中学生の頃に通っていた、多磨学院という塾について書いた記事です。

授業中に突然電気が消える。

先生が生徒たちに本気で語りかける。

最後には、全員でファイトコール。

塾なのに、クラスのみんなで山へ行く。

バスの中では声が枯れるほど歌う。

山荘では寝袋で寝る。

川の水で顔を洗う。

鍋と固形燃料を持っていき、川の近くで食事をする。

私は長谷先生から、これまでにも何度かそんな話を聞いていました。

もちろん、嘘だとは思っていません。

ただ、何しろ50年近く前の話です。

しかも、一つひとつの話がなかなか強烈です(笑)。

ところが昨日、この記事を公開したことで、長谷先生の中の何かに完全に火がついたようです。

土曜の朝、いきなり「これ見て」

昨日の記事を公開した、その翌朝。

土曜日の今日、私が出勤すると、長谷先生がいきなり、「これ見て」と言って、多磨学院のFacebookを見せてきました。(こちらです)

どうやら記事を書いたあと、自分が通っていた塾について、さらに調べ始めたようです。

Facebookには、当時の多磨学院の写真がたくさん残っていました。

昔の教室。

先生たち。

生徒たち。

山荘。

川。

マイクロバス。

その写真を一枚ずつ見ながら、長谷先生が説明してくれました。

「この教室、こんな感じだった」

「これが合宿所へ行くときのバス」

「ほら、川の近くで本当に食事してるでしょ?」

そして、満足そうに一言。

「ね? 本当だったでしょ?」

なぜか、ものすごくドヤ顔でした(笑)。

本当に、川の近くで鍋を使っていました

写真を見ると、本当に川の近くで、生徒たちが鍋を使って食事をしています。

長谷先生が以前から話していた、「川の近くでラーメンを作って、鍋から直接食べる」という話も、どうやら事実そのままだったようです。

むしろ写真を見ることで、本当にこんな塾があったんだということを、私のほうが改めて実感しました。

さらに驚いたのが、合宿所へ向かうマイクロバスの写真です。

多磨学院では、日程をずらして各クラスを別々に合宿に連れて行っていたそうです。

そのため、塾長は何度も何度もマイクロバスを運転して、生徒たちを山まで連れて行っていたとのこと。

これ、今の赤羽南に置き換えて考えてみると、ものすごいことです。

りんご塾の子どもたちをクラスごとに分ける。

それぞれ別の日に集合させる。

マイクロバスに乗せる。

先生が運転して山まで連れて行く。

川の近くで食事を作る。

山荘に泊める。

そして、また赤羽まで連れて帰る。

......。

考えただけで、いろいろすごいです(笑)。

バスで歌っていた曲が、CDになっていました

そして、私がいちばん衝撃を受けたのが、これです。

多磨学院では、合宿所へ向かうマイクロバスの中で、みんなで歌を歌っていたそうです。

それも、少し歌うという程度ではありません。

山に着く頃には、みんな声が枯れていたと長谷先生は言います。

この話も以前から聞いていました(脚色が含まれているかもしれないと思っていましたが、たぶんこれも事実なんだろうな、と思います(笑))。

ところがFacebookを見ていると、当時バスの中で歌っていた曲のリストが、後になってCDにまとめられていました。

塾の合宿へ向かうバスで歌っていた曲が、CDになっている。

え?塾ですよね?

そんな塾、ありますか?(笑)

でも、それだけ当時の生徒たちにとっても、先生たちにとっても、多磨学院で過ごした時間が大きなものだったのだと思います。

何十年たっても、先生や元生徒たちが集まる。

昔の写真を残している。

バスの中で歌った曲まで覚えている。

そして、それをCDにする。

単に授業を受けた塾というだけでは、ここまではならないと思います。

多磨学院は、そこで過ごした人たちにとって、人生の中にずっと残り続ける場所だったのだと思います。

そして、もう続編を書いています

長谷先生は、昨日の記事を書いて終わりではありませんでした。

昔の写真を見つけ、多磨学院のことをさらに調べ始め、早速、続編まで書き始めています(笑)。

昨日公開したばかりですが、昔の写真を見ながら、また色々考え始めています。

そして、やはり最後は赤羽南の話になります。

「人が本気になる教室をつくりたい」

多磨学院の話をしていたはずなのに、気がつけば赤羽南のこれからを考えていました。

長谷先生の原点なんですね

もちろん、多磨学院と赤羽南は、まったく違う教室です。

赤羽南では、授業中に突然電気を消して説教をしたりしません。

全員でファイトコールもしません。

子どもたちをマイクロバスに乗せて、クラスごとに山へ連れて行く予定もありません。

川の水でラーメンも作りません(笑)。

でも、

先生が本気で子どもと向き合えば、子どもも本気になる。

そこで過ごした時間が、その子の中に長く残るような教室をつくりたい。

その思いは、多磨学院から続いているのかもしれません。

私はこれまでに、「長谷先生の教育の考え方は、どこからきたのかな?」

と折に触れ考えてきましたが、今回、多磨学院の写真を見て、もう少しよくわかるようになりました。

まじで、想像以上に体育会系です(笑)。

長谷先生自身がかつて経験した、

本気の大人たちが、本気でつくった教室を、今度は自分が、今できる形で子どもたちへ返そうとしている。

長谷先生が、多磨学院をはじめとする、かつての教育の在り方について語る理由も、

赤羽南を普通の個別指導教室にしたくない理由も、

昨日の記事と、今朝見せてもらった写真が、私の中で少しつながりました。

一緒に作っていきましょう。

大人の本気が、子どもに伝わる教室を!


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