城南コベッツ赤羽南教室

Tel:03-6903-8030

  • 〒115-0044 東京都北区赤羽南1丁目3-7 セキネビル 3階
  • JR線「赤羽駅」南改札口より徒歩3分

受付時間: 15:30~20:00(火~金)/14:30~19:30(土)/休み(日月祝)

  • りんご塾(算数オリンピック対策)
  • atama+個別指導
  • 総合型・学校推薦型選抜対策(推薦ラボ)

2026.10.10

先日、りんご塾でこんなことがありました。

授業が終わり、お迎えに来たお母さんに、小学1年生の子が言いました。

「筆箱がカバンに入ってなかった」

すると、お母さんが子どもに、「ごめんね」と謝りました。

そのやり取りを聞いていて、私は少し考えてしまいました。

もちろん、そのご家庭が普段どのように学校の準備をしているのかは分かりません。

たまたま、その日はお母さんが筆箱を入れることになっていたのかもしれません。

ですから、この一場面だけで何かを決めつけるつもりはありません。

でも、私が引っかかったのは、

「筆箱がカバンに入っていなかった責任は、誰にあることになっているのだろう」ということでした。

忘れ物をしたら、困ればいい

少し乱暴に聞こえるかもしれません。

でも私は、子どもは忘れ物をしたら、ある程度困ればいいと思っています。

筆箱を忘れた。

学校に着いてから気づいた。

「しまった」と思う。

先生に言わなければならない。

場合によっては注意される。

友達に鉛筆を借りることになる。

ちょっと恥ずかしい思いをするかもしれない。

でも、それでいいのではないでしょうか。

そこで初めて、「明日は忘れないようにしよう」と考えるからです。

そして家に帰ったら、自分で筆箱を確認する。

明日の時間割を見る。

必要なものをカバンに入れる。

最初から全部できる必要はありません。

小学1年生なら、親子で一緒に準備する時期もあるでしょう。

「明日の準備した?」と声をかけることも必要だと思います。

でも、少しずつ大人が手を離していく。

私は、その過程がとても大切だと思っています。

子どもには「失敗する権利」がある

私たち大人は、できれば子どもに失敗してほしくありません。

忘れ物をしてほしくない。

学校で怒られてほしくない。

恥ずかしい思いをしてほしくない。

困ってほしくない。

だから、つい先回りします。

明日の時間割を確認する。

鉛筆を削る。

筆箱をランドセルに入れる。

忘れているものがないか確認する。

そして完璧な状態で学校へ送り出す。

確かに、忘れ物は減るでしょう。

でも、その代わりに失っているものはないでしょうか。

私は、子どもには「失敗する権利」があると思っています。

忘れて困る。

失敗して恥ずかしい思いをする。

先生に注意される。

うまくいかなくて悔しい。

そして、「じゃあ、次はどうしよう」と考える。

この経験まで、大人が先回りして奪う必要はないと思うのです。

「困ったら誰かがなんとかしてくれる」

りんご塾で子どもたちを教えていると、実は、算数ができない子そのものを指導することは、それほど怖くはありません。

できないのであれば、私たちにはいろいろな方法があります。

どこで止まっているのかを見る。

問題を小さく分ける。

具体物に戻る。

言葉を変える。

図を描く。

簡単なところまで戻る。

あるいは、何も言わずに少し待つ。

子どもの「できない」には、講師が「できる」ことがたくさんあります。

私がむしろ指導を難しいと感じるのは、

「できないことに、本人があまり困っていない子」です。

問題が解けなくても、それほど悔しくない。

間違えても、あまり気にならない。

分からなければ先生が教えてくれる。

手を止めていれば、そのうちヒントが出てくる。

だから、自分から、

「どうしたらできるんだろう」

「もう一回やってみよう」

「違う方法で考えてみよう」

という動きがなかなか出てこない。

私は、こういう子を教えるときに非常に悩みます。

「なんとかしよう」が起動しない

りんご塾赤羽南教室では、「考える」とは、自分の力でなんとかしようとすることだと考えています。

正解できることだけが「考える」ではありません。

むしろ、分からない、できない、困った、今までの方法ではムリだとわかったとき。

そんなときに、「じゃあ、どうしよう」と考え始めること。

そこから思考は始まります。

ところが、「困る」という経験そのものを大人が先回りして全部取り除いていたら、どうでしょう。

忘れ物をしそうなら、親が準備する。

分からなそうなら、先生が教える。

失敗しそうなら、大人が止める。

困っていたら、大人が解決する。

それが繰り返された子に、ある日突然、「自分で考えてごらん」と言っても、簡単ではないのかもしれません。

なぜなら、自分でなんとかしなければならない場面そのものを、あまり経験していないからです。

九九を全部覚えていなくても

今週、学生講師がとある生徒の成長の瞬間をブログにしてくれました。

その小学1年生は、まだ九九を全部覚えていませんでした。

1、2、3、5の段は言える。

でも、4の段はまだ完全ではない。

そんなとき、「4×7」という問題が出てきました。

その子は少し考えて、2×7=14

そこから、さらに2倍して、28と答えを出しました。

私は、こういう瞬間が大好きです。

もちろん、九九はいずれ覚えなければいけません。

でも、その瞬間に大切なのは、4の段を暗唱できるかどうかだけではありません。

「今の自分が持っているものを使って、なんとか答えを出そうとした」ことです。

これこそ、私たちが育てたいものです。

逆に、たくさんのことを覚えていても、知らない問題が出た瞬間に、「習ってない」「分からない」で止まってしまうのであれば、私はそちらの方が心配です。

「分からない。まあいいや」が一番難しい

子どもが問題を解けない。

それ自体は、そんなに大きな問題ではありません。

今できなければ、練習すればいい。

理解できなければ、別の方法を考えればいい。

時間がかかるなら、時間をかければいい。

でも、「分からない。まあいいや」となってしまうと、私たちも非常に難しくなります。

なぜなら、教育は本人に代わって成長してあげることができないからです。

周りの大人がどれだけ一生懸命になっても、最後に鉛筆を持って思考するのは本人です。

子どもが困っている姿に、大人が耐えられるか

だから最近、私はこんなことを考えます。

子どもが困っていることに、大人の方が耐えられなくなっていないでしょうか。

問題が解けず、鉛筆が止まっている。

かわいそうだからヒントを出す。

忘れ物をしそうになっている。

かわいそうだからカバンに入れる。

失敗しそうになっている。

かわいそうだから先に教える。

もちろん、全部善意です。

子どものことを思ってやっている。

だからこそ難しいのだと思います。

でも、子どもが困っている時間は、本当にすべてなくしてあげた方がいいのでしょうか。

私は、そうは思いません。

困る。

失敗する。

恥ずかしい思いをする。

悔しい。

そして、「次はどうしたらいいんだろう」と考える。

その時間もまた、子どもが成長するために必要な時間なのだと思っています。

すぐに助けないことも、教育だと思っています

りんご塾では、子どもが問題を解けなくても、すぐに教えないことがあります。

手が止まっていても、すぐにヒントを出さないことがあります。

それは放置ではありません。

子どもの視線の動きや鉛筆の進め方を、プロが凝視しています。

考えているのか。

困っているのか。

何かを試そうとしているのか。

もう少し待つべきなのか。

そこを見ています。

そして、あえて待つ。

なぜなら、「自分でなんとかできた」という経験を、大人が奪いたくないからです。

筆箱を忘れることも。

算数の問題を間違えることも。

その瞬間だけを見れば、失敗です。

でも、その失敗から、「じゃあ、次はどうしよう」が生まれるのであれば、それは子どもにとって、とても大切な経験であり、成長に繋がります。

子どもを困らせないこと。

子どもを失敗させないこと。

それが、本当に子どものためなのか。

私たち大人は、ときどき立ち止まって考えてもいいのではないでしょうか。

できる子にしたい。

もちろん、そう思っています。

でも、それ以上に、できないことに出会ったとき、自分の力でなんとかしようとする子にしたい。

だから私は、子どもが困る時間まで、大人が奪わなくていい。

私は強くそう思います。

りんご塾、忘れ物と思いやり.png



2026.10.09

教室で子どもたちを見ていると、ときどき、私たち講師がどう接するべきか、とても考えさせられる場面があります。

最近、私が特に考えていることがあります。

それは、

「自分にとって都合の悪いことを聞かれたときに、答えない」

という行動についてです。

もちろん、子どもですから、

すぐに言葉が出てこないこともあると思います。

自分でも何が嫌なのか分からないこともあるでしょう。

間違えるのが怖くて答えられないこともあります。

ですから、返事をしないことだけを見て、

「無視している」「逃げている」と決めつけるつもりはありません。

私たちは普段から、子どもの視線や表情、鉛筆の動きまで見ながら、その子が今何を考えているのかをできる限り想像しようとしています。

それでも長く子どもたちを見ていると、少し気になることがあるので、今日はそのことについて書きたいと思います。

黙っていると、その場が終わる

たとえば、大人から何かを聞かれます。

自分にとって答えやすい質問には答える。

ところが、自分にとって少し都合の悪い質問になると、黙ってしまう。

大人はもう一度聞きます。

それでも答えない。

「どうしたの?」

「質問がわかりにくい?」

「怒っているわけじゃないよ」

いろいろな工夫をして言葉をかけます。

それでも黙っている。

そして最後には、大人の方が諦めます。

「まあ、いいか。次にいこう」

こうして、その場は終わります。

これが何度も繰り返されたとき、子どもの中に、

「答えたくないときは、黙っていればそのうち終わる」という経験が積み重なってしまうことはないでしょうか。

私は最近、このことをかなり考えています。

「正しい答え」を求めているわけではありません

私たちが求めているのは、立派な説明ではありません。

「分かりません」でもいい。

「忘れました」でもいい。

「やりたくありませんでした」でもいいんです。

自分でも自分の状況が分からないことはあるので、それは「分からない」と言って構いません。

小学生や幼児に、大人のような説明を求めているわけではありません。

大切なのは、自分にとって少し都合の悪い場面でも、相手とのコミュニケーションを閉じないこと。

このことは、 "発達段階" や "性格" を問わず、どんな子どもにも共通する、とても大切なことだと考えています。

算数とは関係のない話でしょうか

一見すると、これは算数とは関係のない話に見えるかもしれません。

でも私は、そうは思っていません。

難しい問題に出会った。

分からなくて、「もう嫌だ」と心を閉じるのか。

それとも、「分からないけれど、何とかしてみよう」ともう一度、問題を見るのか。

りんご塾では、後者をとても大切にしています。

私たちは以前から、「考える」とは、自分の力でなんとかしようとすることだと考えてきました。

だからこそ、答えが出なかったことよりも、そのときにどう振る舞ったのかを見ています。

間違えてもいい。

分からなくてもいい。

時間がかかってもいい。

でも、そこで思考もコミュニケーションも全部閉じてしまうのではなく、今の自分にできる方法で、なんとかしようとしてほしい。

これは算数だけで身につけてほしい力ではありません。

ご家庭では、どうでしょうか

そこで、保護者の皆さまにも一度考えていただきたいことがあります。

お子さまが、自分にとって都合の悪いことを聞かれたとき、どんな反応をしていますか。

黙ってしまうことはありませんか。

そしてそのとき、大人はどうしていますか。

何度か聞いて、それでも答えなければ、「もういい」と終わらせてはいないでしょうか。

もちろん、子どもを追い詰める必要はありません。

無理に言葉を引き出すことが正解だとも思いません。

ただ、「黙っていれば嫌なことは終わる」という経験を積ませてしまうことについては、少し慎重になってもいいのではないかと思っています。

教室でも、私たちはこの問題について試行錯誤しています。

正解があるとは思っていません。

子どもによって理由も違うでしょう。

だからこそ、ご家庭での様子も含めて、保護者の皆さまと一緒に考えていきたいと思っています。

算数ができるようになることは、もちろん大切です。

でも、その過程で、分からないとき、間違えたとき、注意されたとき、自分にとって都合の悪いことを聞かれたとき。

そのときに、どう人と向き合うのか。

そこにも、その子の成長が表れるのだと思います。

りんご塾赤羽南教室が大切にしている、「人間的成長なくして学力の向上なし」という言葉。

こういう勉強には直接関係なさそうな場面にこそ、その意味があるのかもしれません。

7a45ea50-6a03-4683-9521-b6e2326e06b9.png

2026.10.08

りんご塾赤羽南教室では、よく、「教えすぎない」という話をします。

子どもが分からないと言ったからといって、すぐに解き方を教えない。

手が止まったからといって、すぐにヒントを出さない。

自分で考える時間を大切にする。

これだけを書くと、もしかすると、「では、先生はその間、何をしているのですか?」と思われるかもしれません。

ボケーッとしているわけではありません。(笑)

何もせず、子どもが解けるまで待っているのでしょうか。

もちろん、違います。

むしろ私は、子どもが考えている時間こそ、講師もかなり集中している時間だと思っています。

鉛筆が止まっている。それだけでは分からない

たとえば、一人の子どもの鉛筆が止まったとします。

30秒。

1分。

それでも書き始めない。

だからといって、「分からないんだな」と判断して、すぐにヒントを出すわけではありません。

その子の目は、どこを見ているのか。

問題文をもう一度読んでいるのか。

図を見ているのか。

さっき自分が書いた式を見直しているのか。

指を使って何かを数えているのか。

鉛筆を持ったまま、じっと考えているのか。

それとも、完全に思考が止まってしまっているのか。

そして、表情。

「解けるぞ!」という顔をしているのか。

「まだ試行錯誤をしている段階」の顔なのか。

「まったく分からない」という顔なのか。

同じように鉛筆が止まっていても、子どもの頭の中で起きていることは全く違います。

だから、こちらも見ています。

かなり見ています。

「待つ」は、何もしないことではありません

これは、実際に指導しているとよく分かります。

あと30秒、こちらが待った方がいいときがあります。

逆に、順調に見えるけど、「そうそう」「いいかんじ」など、一言入れた方がいい瞬間もあります。

そして一番難しいのが、「今、教えたら解ける。でも、まだ教えない方がいい」という場面です。

大人から見ていると、試行錯誤の途中で、子どもたちがせっかく正解に迫っていたのに、違う方へ行こうとしたりします。

そういうときは、説明してしまう方が簡単です。

「ここをこうしてごらん」

「この数字を使うんだよ」

「さっきの問題と同じだよ」

そう言えば、授業はスムーズに進みます。

テキストも進みます。

でも、その一言で、子どもが自分でたどり着くはずだったものを奪ってしまうことがあります。

だから、言わない。

でも、放っておくわけでもない。

待ちながら、見ている。

これが意外と難しいのです。

私たちも、子どもと一緒に集中しています

子どもが難しい問題に向き合っているとき、実は講師側もかなり集中しています。

目線が問題文に戻った。

何かを書き始めた。

さっきとは違うところを見ている。

表情には、まだ真剣さがある。

そういう小さな様子や変化を見ながら、

まだ、もう少し待つ。

ここも、言わない。

......今なら、一言だけ。

そんな判断をしています。

ですから、「教えない指導」という言葉は、少し誤解されやすいのかもしれません。

私たちが目指しているのは、教えないことではありません。

必要以上には教えず、必要な瞬間に、必要な分だけ手を貸すこと。

そのためには、子どもをよく見ていなければできません。

ヒントにも、大きさがあります

ヒントを出すときも同じです。

答えにつながる大きなヒントを出せば、当然、子どもは解きやすくなります。

でも、それではこちらが解かせたことになってしまう場合があります。

だから、「問題文、もう一回読んでみようか」で十分なのか。

「この図のここは、どういう意味なのかな?」なのか。

あるいは、「ここまで合ってるよ」という一言だけあれば、自信が持てて、続きも考えられるのか。

場合によっては、何も言わず、目線を合わせて強くうなずくだけでいいこともあります。

ヒントは、少なければ少ないほどいいわけでもありません。

多ければ親切というわけでもありません。

その子がもう一度自分で動き出せる、ちょうどいいところを探します。

「自分で解けた」を奪いたくない

長く数学を教えてきて、私は何度も見てきました。

難しい問題をずっと考えていた生徒が、突然、「あっ!」と言う瞬間です。

あの瞬間の表情は、幼児でも高校生でも、あまり変わりません。

そして面白いことに、その直前まで、「分からない」「できない」という顔をしていた子ほど、解けた瞬間は嬉しそうです。

だから私は、あの瞬間をできるだけこちらが奪いたくありません。

先生が全部説明して、「分かった」ではなく、

「自分で気づいた」「自分で分かった!」を経験してほしい。

もちろん、いつまでも分からないままにしておくことが教育だとも思いません。

だからこそ、見ています。

声掛けのタイミングと内容を判断をするために、こちらも集中しています。

「教えない」と「放置」は、まったく違う

以前から私は、「どこまで教えないか」が大切だと考えてきました。

でも、考えてみれば、その前提になる言葉をあまり書いてこなかった気がします。

それは、教えないためには、よく見なければならないということです。

考えているのか、困っているのか、諦めかけているのかを見る。

こちらも集中しているから、待てるのです。

何も見ていない先生が黙っていたら、それは「教えない指導」ではありません。

ただの放置になってしまいます。

教えないことが技術なのではありません。

見て、待って、考えて、必要な瞬間だけ手を出す。

そこまで含めて、私たちの考える「教えすぎない指導」です。

そして最終的には、

自分でもう一度問題を読み、

自分で手を動かし、

自分の力でなんとかしようとする。

そんな子になってほしいと思っています。

先生がいなくても、自分で考えられるようになるために。

だから今日も、私たちはすぐには教えません。

その代わり、ものすごく、見ています。

9b5d540a-5a1a-4699-b094-a83d82b216cb.png


2026.10.07

講師の内田です!


早速ですが、

りんご塾で子どもたちと接していて、

驚いたことがあります。


小学1年生以下の生徒たちが

小学2年生になる前に、

九九をすらすら言えるようになる!という

姿勢が当たり前にあることです。

中には

未就学児でも言える子もいて、

教室ではそれが珍しくない光景になっています。


そんな中で、

九九を暗記している段階の、

ある1年生の姿が印象に残りました。


今日はその生徒のお話です。

その子は、1・2・3・5の段は

すらすら言えますが、

まだ全部の段を完璧に

覚えているわけではありません。

しかし、

今、その子がやっている教材では

九九が多く出てくる段階です。

例えば、

問題に「6×7」が出てきたとき、

その子はまず「2×7」を計算しました。

答えは14。

そして、その14を3回足して、

14+14+14=42という答えを

当たり前のように

導いていました。

まだ覚えていない九九の答えを、

知っている九九を使って求めていたのです。

その様子を見て、

私は感動しました。

今まで習ってきた算数で

培った能力を使って、

小学1年生が

もうこんな工夫ができるんだ。

覚えていることを、

自分でつなぎ合わせて使えるんだ、と。

もちろん、

九九はいずれしっかりと

覚える必要があります。

すらすら答えが出るようになれば、

その先の計算にも

取り組みやすくなります。


しかし、

九九暗記を頑張る段階の生徒には、

一時的にその問題を飛ばして

別の単元から進める提案

をすることもあります。

でもその子は、

1ページでも飛ばして進めることが嫌

と考える子です。

そのため、

全部暗記するまで問題を解くのを

待ってはいませんでした。

まだ覚えていない段の九九にも、

今の自分が持っている力を

精いっぱい使って、

答えを出そうとしていました。

「分からない」で終わらず、

どうにかして答えを出そうとする。


その姿が、とても頼もしく見えました。

算数を勉強していると、

すぐには解けない問題にも出会います。

そんなとき、

知っていることを使ってみる。

違うやり方を試してみる。

一度でうまくいかなくても、

もう少し考えてみる。

その積み重ねが、

自分で考える力につながっていくのだ

と思います。

そして、

こうした姿勢が必要になるのは、

算数の時間だけではありません。

これから先、

勉強でも仕事でも、

生きていく中で、

すぐには答えが見つからないことが

あるはずです。

そのときに、

自分にできることを探して、

なんとかしようとする。

その、しつこいくらいの貪欲さは、

一生大切にしてほしいと思いました。

九九を教える場面で、

私自身が

生徒から学ばせてもらいました。

「6×7」の答えは42。

その答えにたどり着くまでの

工夫と粘り強さが、

今も心に残っています。


8.png
城南コベッツ赤羽南教室
りんご塾赤羽南教室

・りんご塾といえば、東は赤羽!西は滋賀!
・全国で唯一、大学受験まで指導できるりんご塾
・人間的成長なくして学力の向上なし
・語彙力なくして思考なし、思考なくして学力なし

東京都北区赤羽南1-3-7 セキネビル3F
(赤羽駅南改札より徒歩2分)
℡.:03-6903-8030  
Mail: covez_akabaneminami@johnan.co.jp
※電話対応時間:㈫~㈮ 15:30~21:00 / ㈯ 11:30~20:30

2026.10.06

前回まで、中学受験のテストと、その後の中学生、高校生を見てきて私が感じていることを書きました。

今回は、その話をもう少し先まで考えてみたいと思います。

私は、中学受験そのものを否定したいわけではありません。

中学受験の算数には、本当に面白い問題があります。

目標に向かって努力する経験にも価値があります。

そして、中学受験を通して大きく成長する子もたくさんいるでしょう。

だからこそ、私は考えたいのです。

中学受験という教育の「成功」を、どこで判断するのか。

小6の2月は、大きなゴールです

中学受験を専門にする塾にとって、小学校6年生の2月は非常に大きなゴールです。

志望校に合格した。

偏差値が上がった。

難しい問題が解けるようになった。

それはもちろん、大きな成果です。

本人も、家族も、先生も頑張った。

その努力を否定するつもりはまったくありません。

ただ、その子の勉強はそこで終わるわけではありません。

むしろ、その先の方がずっと長い。

中学生になる。

高校生になる。

大学受験をする。

大学へ行く。

そして社会に出る。

私は「その後」をたくさん見てきました

私は長い間、数学を教えてきた人間です。

その中で、私立の中高一貫校に通う中学生、高校生もたくさん教えてきました。

つまり私は、中学受験を終えた子どもたちの「その後」を長く見てきたことになります。

そこで最近、考えるようになりました。

小6の2月にうまくいったように見える教育が、中1でも本当にうまくいっているのか?

高1ではどうか?

大学受験で結果は出ているのか?

そして、先生がいなくなったときはどうなのか。

そこまで見なければ、その教育が本当にその子に何を残したのかは、分からないのではないでしょうか。

合格実績では測れないものがある

教育の成果を数字で見ることは必要です。

どの学校に何人が合格したのか。

偏差値がどれだけ伸びたのか。

点数がどれだけ上がったのか。

結果はとても大切です。

私自身、長く受験指導をしてきた人間ですから、結果を軽く考えるつもりはありません。

ただ、それだけでは測れないものが確かにあります。

中学生になったとき、自分で目標を決められるか。

中学以降は、部活動もあって忙しくなる中で、時間をどうにかして作れるか。

テストで失敗したとき、自分で修正できるか。

難しい問題に出会ったとき、「無理」ではなく、「どうにかならないかな」と考えられるか。

私は、こういうものも教育の成果だと思っています。

やっぱり私は、幼児や小学校低学年にすぐ答えを教えたくない

私は今、りんご塾赤羽南教室で、幼児や小学校低学年の子どもたちを教えています。

問題の前で止まって、鉛筆が動かなくなる子もいます。

そんなとき、すぐに教えれば授業は早く進みます。

でも、私はなるべく待ちます。

もちろん、放置しているわけではありません。

表情、視線、姿勢も見る。

まだ考えようとしているのか、半ば諦めているのか。

問題のどこまで分かっているのかを見ながら、こちらも集中して待っています。

なぜ、そこまでするのか。

以前なら、「思考力をつけたいから」と答えていたかもしれません。

もちろん、それもあります。

でも今は、もっと先を見ています。

この子が中学生になったとき、自分で勉強できる人になってほしいからです。

高校生になったとき、「先生、何をやればいいですか」と人に頼ったり、「時間がなくてできません」と言ってできない理由にしたりするのではなく、

「今の自分にはこれが必要だから、これをやる」と言える人になってほしい。

テストで失敗したとき、「まあいいや」でも、「もう嫌だ」でもなく、

「じゃあ、次はどうしよう」と考えられる人になってほしい。

だから私は、幼児の問題一問でも、簡単に答えを教えたくありません。

教育の結果は、卒業の日には分からない

最近、私は強く思います。

教育の結果は、その子が教室を卒業する日に出るものではない。

小学生を教えるなら、その子が中学生になった姿を想像する。

中学生を教えるなら、高校生になった姿を考える。

高校生を教えるなら、その先を考える。

目の前のテストで点数を取らせることも大切です。

合格させることも大切です。

結果は大切です。

でも、その結果を出すために作った仕組みが、

その子の3年後、6年後に何を残しているのか。

そこまで考えることも、教育する側の責任ではないでしょうか。

中学受験に関わる人たちに、考えてほしい

だから私は、この問題を、中学受験をする子どもや家庭だけの問題だとは考えていません。

中学受験を指導する塾。

中学入試を実施し、その子どもたちを受け入れる学校。

保護者。

そして、私たち教育に関わる者。

それぞれの立場から、一度真剣に考え、議論してもよい問題なのではないかと思っています。

小学生のうちに、これほど多くの時間を勉強に使う。

子どもたちは、本当に頑張っています。

それだけ大きな時間とエネルギーを子どもたちに求めるのであれば、「どこに合格したか」だけで終わらせてはいけないのではないか。

その経験が、中学生になったとき、その子に何が残っているか。

高校生になったとき、どんな学び方をする人間になっているのか。

自分で目標を立て、逆算して計画を建てられるようになったのか。

失敗したとき、自分で修正できるようになったのか。

難しいものに出会ったとき、逃げずに考えられるようになったのか。

私は、そこまで検証する必要があると思っています。

中学受験には価値がある。だからこそ考えたい

これは、「中学受験をなくした方がいい」という話ではありません。

中学受験には中学受験の価値があります。

だからこそ、もっと良いものにできないのだろうかと思うのです。

目の前の入試で結果を出すこと。

その後、自分で学べる人間を育てること。

この二つは、本来、対立するものではないはずです。

小6の2月の先に、どんな学習者を育てたいのか

私が長い間、私立中高一貫校の中学生、高校生を教えながら感じていた違和感。

そして今、幼児や小学生を教えるようになって考えていること。

それらをつなげると、私の中には一つの問いが残ります。

「小6の2月の先に、どんな学習者を育てたいのか。」

小学生のときに何点取ったか。

どのクラスにいたか。

どの学校に合格したか。

もちろん、それも大切です。

でも私は、その先を見たい。

中学生になったとき。

高校生になったとき。

そして、先生も親も横にいなくなったとき。

その子が、

自分で目標を決め、

自分で計画を立て、

自分で時間を作り、

自分で試行錯誤し、

うまくいかなければ修正し、もう一度やってみることができるか。

私が幼児や小学生を教えるときに見ているのは、実は、目の前の一問だけではありません。

その子が中学生になった姿。

高校生になった姿。

そして、先生がいなくても、自分で考えて動けるようになった姿です。

だから私は、中学受験に関わる塾、学校、家庭、そして教育に関わる人たちに、「小6の2月の先に、どんな学習者を育てたいのか」ということを、一度真剣に考えていただきたいと思っています。

そしてもちろん、私自身も教育に関わる一人として、考え続けたいと思っています。


小6の2月から続く学びの道.png

2026.10.05

私はこれまで、私立の中高一貫校に通う中学生、高校生を数多く見てきました。

その中で、長い間ずっと不思議に感じていたことがあります。

中学受験を経験した彼らの多くは、小学生の頃、本当によく勉強しています。

塾に通って、大量の問題を解いて、宿題も膨大な量をこなしてきている。

模試やテストも、数え切れないほど受けています。

小学生としては、かなりの勉強量です。

だから私は当然、中学生になったら、自分で勉強することにも相当慣れているのが普通ではないかと思っていました。

ところが、実際に教えていると、必ずしもそうではありません。

中間テストが近づいているのに、生活が変わらない

例えば、中間テストや期末テスト。

もうすぐテストなのに、それほど生活が変わらない子がいます。

普段より勉強時間を増やすわけでもない。

今回のテストで何点を取りたいのか、明確な目標があるわけでもない。

できていない単元を洗い出しているわけでもない。

そしてテストを受ける。

60点くらいだった。

もちろん、平均点や問題の難易度によりますから、60点という数字だけで良い悪いを判断することはできません。

私が気になっていたのは点数そのものではありません。

「この結果なら、次はやり方を変えなければ」という反応が、ないんです......。

「次は80点を取る」

「だったら2週間前から、しっかり勉強を始める」

「普段の授業の聞き方を変える」

「今回は英単語を全部覚えてからテストを受ける」

「数学のこの単元が弱いから、日曜日にやり直す」

そういう発想にならない。

試験の結果から、「やり方を変えようとか」「点数を上げよう」と考えていない生徒があまりに多いので、
私はずっと、「なぜなんだろう」と思っていました。

テストに慣れているからこそ、テストが特別ではない?

最近になって、一つの可能性に気づきました。

もしかすると、テストに慣れすぎているのではないか。

中学受験の勉強が始まる小学4年生の頃から、とにかくテストが続きます。

今週末もテスト。来週もテストで、月末には大事なテスト。

もうテストが続きすぎて、どこが弱いのかが、かえってわからなくなるという逆説です。

点数が良いこともあるし、悪いこともある。

でも、また次が来る。

そういう経験を3年以上も続けてきた。

すると、中学生になって中間テストが来ても、「テストだから、本気で準備しなければ」というスイッチがあまり入らないのではないか。

テストをたくさん経験していることと、テストに向けて自分で準備できることは、同じではないのだと思います。

あれほど勉強していたのに

ここで、もう一つ大きな疑問が出てきます。

中学受験のときは、あれほど勉強したはずの子どもたちです。

では、なぜ中学生になったら、自分で勉強できない子が続出するのでしょうか。

最近、私はこう考えています。

たくさん勉強していたことと、自分で自分の勉強を動かしていたことは、同じではなかったのかもしれない。

中学受験塾には、非常によくできたカリキュラムがあります。

次に何を勉強するのか。

いつテストがあるのか。

何を復習するのか。

かなり細かく用意されています。

子どもは、そのレールの上を一生懸命に走ります。

これは決して悪いことではありません。

むしろ、小学生にあれだけの勉強をさせるには、精密な仕組みが必要でしょう。

ただし、一つだけ注意しなければならない。

レールの上を速く走れることと、自分で行き先を決められることは違います。

「先生、次は何をやればいいですか」

高校生を教えていても、「先生、次は何をやればいいですか」と聞かれることがあります。

もちろん、最初はそれでいい。

こちらが勉強方法を教える必要もあります。

でも、同じ質問をずっと繰り返すようでは困ります。

自分の成績を見る。

自分の弱点を考える。

目標までの距離を逆算する。

「だったら今、自分にはこれが必要だ」と判断し、実行する。

中学生以上の勉強には、そういう力が少しずつ必要になります。

ところが、小学生の頃からずっと、「次はこれ」「今週はここ」「次のテスト範囲はここ」と用意され続けていると、自分で自分の勉強を設計する経験が少ないまま中学生になり、それを修正することなく高校生になることもあるのではないでしょうか。

もう一つ、不思議だったこと

私が中高生を教えていて、もう一つ不思議に感じていたことがあります。

文章題を極端に嫌がる子がいることです。

実際にはそれほど難しくなくても、"文章題"を目にすると、「あぁもう無理~!」「先生、わかりません」と拒絶反応が起きます。

"証明問題"なんてもってのほかで、一行目すら自分で書けない。

私が見てきたそういう中高生には、中学受験を経験してきた生徒が少なくありません。

小学生の頃、相当難しい算数をやってきたはずです。

それなのに、中学数学、高校数学で少し難しい問題が出ると、問題を十分に読む前から、「これ無理です」「分かりません」となる。

私は「中学入試」に対して、不穏なものを感じ始めていました。

難しい問題を解いてきたことと、難しい問題から逃げないことも違う

今では私は、ここにも同じ構造があるように感じています。

難しい問題をたくさん解いたけど、テストで点が取れない。

親から何か言われる。順位も下がる。クラスが下がる。

こういう経験を繰り返した子にとって、難しい問題は、「考えると面白いもの」ではなく、「自分ができないことを確認させられるもの」になってしまっているかもしれません。

すると、「どうすればいいかな」より先に、「やりたくない」が出てくる。

これは、とても皮肉なことです。

難しい問題をたくさん経験したことが、必ずしも、難しい問題に粘れる人を育てるとは限らない。

以前なら、りんご塾で難問でもじっくり思考していた子が、大手中学受験塾に入った後で、予習シリーズの応用問題に取り組むことにすごい抵抗感を示す姿を目にするようになりました。

りんご塾で教えていた身としては、言葉にならないモヤモヤが残ります。

最近、昔の違和感がつながりました

私はこれまで長い間、中学受験をして私立中高一貫校に入学した中学生、高校生をたくさん見てきました。

その中で、

「中学受験であれだけ勉強したのに、なぜ自分で勉強を組み立てられないんだろう」

「なぜ定期テストの結果が悪くても、勉強方法を変えないんだろう」

「なぜ難しい問題と決めつけて、考える前から嫌がるんだろう」

と感じることが何度もありました。

当時は、その理由がよく分かりませんでしたが、幼児や小学生を教えるようになって、少しずつつながってきました。

たくさん勉強することと、自分で勉強できることは違う

私は、中学受験を否定したいわけではありません。

中学受験で大きく成長する子もいます。

自分で目標を持ち、努力し、失敗から修正する力を身につける子もたくさんいるでしょう。

だから、すべてを中学受験のせいにするつもりはありません。

ただ、教育する側として、この三つは分けて考える必要があると思っています。

テストをたくさん受けることと、テストに向けて自分で勉強できることは、同じではない。

たくさん勉強することと、自分で勉強できる人間になることも、同じではない。

そして、難しい問題をたくさん解くことと、難しい問題から逃げない人間になることも、同じではない。

では、中学受験という大きな教育システムを、私たちはどこまでの時間軸で評価すればいいのでしょうか。

志望校に合格した小学校6年生の2月でしょうか。

私は、そうではないと思うようになりました。

次回は、このことについて書きたいと思います。


中学受験後の勉強迷子.png

2026.10.04

私は長い間、大学受験の数学を教えてきました。

そして今は、りんご塾赤羽南教室で、幼児や小学生の指導にも関わっています。

最近、小学生を教えながら、以前から少し気になっていたことを改めて考えるようになりました。

それは、「テストは何のためにあるのだろう?」ということです。

中学受験の塾は、とにかくテストが多い

大手の中学受験塾では、頻繁にテストがあります。

もちろん、その理由は分かります。

学習内容が定着しているか確認する。

現在の位置を知る。

クラス分けをする。

次の学習につなげる。

非常によくできたシステムだと思います。

特に、そのシステムの中で安定して点数を取れる子には、とても良い仕組みでしょう。

勉強する。

テストを受ける。

結果を見て、できなかったところを修正する。

そして次へ進む。

このサイクルがうまく回っているなら、私は何も問題を感じません。

ただ、すべての子がそうなるわけではありません。

本当は、テストが終わってからが勉強だと思う

例えば、テストで思うような点数が取れなかった。

私は、本当はここからが勉強だと思っています。

なぜできなかったのか。

知識が足りなかったのか。

理解が曖昧だったのか。

時間が足りなかったのか。

問題を読み違えたのか。

計算ミスをしたのか。

一つずつ確認する。

そして、もう一度解いてみる。

まだできなければ、また考える。

最後には、「あのときできなかった問題が、今はできる」という状態にする。

60点だったテストを、60点のまま終わらせない。

私は、テストとは本来、そのためにあるものだと思っています。

ところが、もう次のテストが来る

テストの間隔が短いと、これが難しくなります。

テストを受ける。

結果が返ってくる。

思ったより悪い。

家に帰れば、親から何か言われることもある。

本人も落ち込む。

でも、ゆっくり原因を考えている時間はありません。

もう次のテスト範囲を勉強しなければならないからです。

すると、勉強 → テスト → 修正 → 定着ではなく、

勉強 → テスト → 結果 → 次のテスト → 結果 → また次のテスト

になってしまうことがあります。

ここに、私は少し怖さを感じています。

「間違えること」の意味が変わってしまう

本来、間違えることは悪いことではありません。

できないことが見つかった。

だから、できるようにする。

それだけのことです。

ところが、テストで間違える。⇒点数が悪い。

親から何か言われる。順位が下がる。クラスが下がる。

そして、また次のテスト。

これが何度も続くと、「間違える=できるようになるための材料」ではなく、「間違える=嫌なことが起きる」になってしまう子がいます。

難しい問題を、考える前から嫌がる

私は、こういう子を何度も見てきました。

難しい問題を出す。

まだ問題をきちんと読んでもいない。

鉛筆も動かしていない。

それなのに、「無理」「分からない」「学校で習ってないからできない」と言う。

不思議だと思いませんか。

中学受験のために、難しい問題をたくさん解いてきた子です。

それなのに、難しい問題を嫌がる。

以前の私は、「なぜだろう?」と思っていました。

でも最近は、少し違う見方をしています。

難しい問題そのものが嫌なのではなく、「できない自分を見ること」が嫌なのかもしれない。

だから、「どうやったら解けるんだろう」より先に、「できなさそうだから、やりたくない」が出てくる。

テストで点数を取ることは大切です

誤解してほしくないのですが、私はテストを否定しているわけではありません。

点数も、結果も、大切です。

テストがあるから頑張れる子もいます。

競争することで伸びる子もいます。

そして、頻繁なテストを自分の成長にうまく利用できる子にとっては、とても良い仕組みだと思います。

私が気になっているのは、その仕組みがうまく回っていない子に、同じことを繰り返し続けて本当にいいのだろうかということです。

テストは「評価」ではなく「修正」のためにある

私は、テストで60点を取ること自体が大きな問題だとは思いません。

問題なのは、60点を取ったあと、何も変わらないことです。

できなかった。ならば、なぜできなかったのかを考える。

やり方を変えたり、もう一度やってみたり。

修正をして、できるようにする。

この経験を何度もすることで、子どもは、「うまくいかなかったら、自分で修正すればいい」ということを体感的に学んでいくんだと思います。

これが"勉強の仕方"の基本となり、"自立した中学生"になるための第一歩だと思います。

テストをたくさん受けることと、テストに向けて勉強できることは違う

そして、もう一つ。

私は最近、この二つを分けて考える必要があると思うようになりました。

テストをたくさん受けること。

そして、テストに向けて、自分で勉強できるようになること。

似ているようですが、まったく同じではありません。

むしろ、テストが日常になりすぎることで、「次のテストでは絶対に取りたい」「そのために今週はこれをやろう」「ここが弱いから、もう一度やろう」と、自分で考える機会が減ってしまうこともあるのではないか。

そんなことを考えています。

なぜ私がそう思うようになったのか。

それには理由があります。

私はこれまで、私立の中高一貫校に通う中学生、高校生をたくさん教えてきたからです。

そして、その子たちを見ながら、長い間ずっと不思議に思っていたことがあります。

次回は、その話を書いてみようと思います。

テストの意味を考える教室.png

2026.10.03

皆さんこんにちは~!
りんご塾赤羽南教室です。

今日、授業に来た小学3年生の男の子が、

「こっそり塾長にだけ見せたいものがあるから」

と、長谷先生を奥の部屋へ連れていきました。

何を見せてくれるのかな?と思っていると、

「いつもお世話になっています」

と、改まった調子で差し出してくれたのは、学校の名前が入ったノートとペンのセットでした。

IMG_3949.jpg
実は長谷先生、こういう「学校の名前入りグッズ」が大好きです。

思いがけないプレゼントに、すごく嬉しそうな顔をしていました。

「これ早速使おう~」

と、頂いたペンを眺めていました。

さらに、ノートを見て、

「やっぱりここで方眼ノートを配るところがわかっているよね~。こういう所が違うんだよね~」

と、なにかわかったようなことを言いながら、すごく満足気です(笑)。

長谷先生は文具オタクなので、方眼ノートひとつでここまで嬉しくなれてしまう、お得な性格なのです(笑)。


さて、この男の子がりんご塾に通い始めて、3年になります。

特にここ数ヶ月は、気持ちの面や忍耐力の成長に、目を見張るものがあります。

難しい問題に向き合い、すぐに答えが出なくても考え続ける。その力が育ってきたのを感じます。

それに伴って、算数でも自分でじっくり考える姿が頼もしくなってきました。講師一同、その成長に驚いています。

日々の授業でそんな変化を感じていたところに、今日の少し改まったご挨拶。

「いつもお世話になっています」

という言葉にも、成長を感じるひとときでした。

そしてやっぱり何より、「こっそり塾長にだけ」と呼び出して、少し改まって渡してくれた、その気持ちが嬉しかったのだと思います。

素敵なプレゼントをありがとうございました!
ノートもペンも、さっそく活躍しそうです。

2026.10.03②.png2026.10.03①.png


城南コベッツ赤羽南教室
りんご塾赤羽南教室

・りんご塾といえば、東は赤羽!西は滋賀!
・全国で唯一、大学受験まで指導できるりんご塾
・人間的成長なくして学力の向上なし
・語彙力なくして思考なし、思考なくして学力なし

東京都北区赤羽南1-3-7 セキネビル3F
(赤羽駅南改札より徒歩2分)
℡.:03-6903-8030  
Mail: covez_akabaneminami@johnan.co.jp
※電話対応時間:㈫~㈮ 15:30~21:00 / ㈯ 11:30~20:30

2026.10.02

数学科講師の宮崎格久です。
今、北里順天、予備校、医学部専門予備校で受験数学を指導しています。

9月30日、10月1日のブログをお読みの方はお分かりになるかと思いますが、長谷大輔先生の教え子です。
東木彩夏先生の高校時代の数学の先生です。

そう、守破離の、いや、守守守の宮崎です(笑)。

アンサーブログ、書いていこうと思います。
お時間あるときにお読みいただければ幸いです。


私は、高校生のときに塾で長谷先生に数学を教わっておりました。

そして大学生になり、そのお世話になった塾で、講師のアルバイトを始めた時の話です。

長谷先生が「ベクトル」、宮崎が「数列」を担当することになりました。

大学生の私には「数列」をどうやって教えればいいのかわかりませんでした。
問題が解けても、教えられるわけではありませんからね。

そこで、大学生の図々しい宮崎は、自分が高校生の時に受けていた長谷先生の授業で配られたオリジナル教材で授業しようと思い、長谷先生に

「この教材使わせてください。どうやって教えればいいですか?」と聞きました。

長谷先生は鼻で笑ってました(笑)。

 

教材は予備校講師にとっては命と同じくらい大事なのです。
時間とお金をかけて研究に研究を重ねてできた商品ですから。

それを大学生の若造が、使わせろだと?

ふざけるなと、今思えばそう思います。

長谷先生は竹中直人ばりに笑いながら説教し(笑)、それでも授業のいろはを教えてくれました。


9月30日のブログにも記載されていた通り、私が小学校の教員を経て予備校講師になったあとも、喫茶店で数えきれないほど沢山のことを教わり、たくさんの金言をもらいました。

集団授業のとき、どのくらいのスピード感で進めていかなくてはいけないのか。

単元は異なっても、一貫した説明でなければならない。

説明がしつこくならないようにしなさい。

予備校の講師室での振る舞い、スタッフの方への対応。

「生徒からの評価」と「会社からの評価」は違うから、両方のことを考えて働きなさい。

仕事はスピードが命!

ポイントを外さない。

痛い人間になるな。

謙虚でいなさい。

他者にしたことはいいことも悪いことも自分に返ってくる。

どうお金を稼ぐか、そしてどうお金を使うか。


どれ一つとってもそれだけでブログ書けちゃうぐらいです(笑)。

 お金を払っても学べないことばかり...

私は自分には力がないとわかっていたので、とにかく真似して真似して少しずつ、自分のものにしていきました。

真似できないこともありましたが、そんなときは...やっぱり真似をしました(笑)。
↑これが守守守である(笑)。

最後の最後まで真似できないところがありましたが、それはもしかしたら個性になってるのかもしれません(個性を出そうと思っていたわけではない、ということが重要です)。

ちなみに、唯一真似していないのは髪型なんですけどね~!(爆笑)
↑ここがこのブログの1番笑うとこだから笑ってくださいね〜

数学科講師 宮崎格久


エピソードは尽きないのですが、最後に。これを読んでくれている人たちに伝えたいことを記しておきます。

 
まず、10代20代の生徒、学生さんへ

 世の中には一流の人がいます。

勉強だけをやってればいいわけではなく、勉強以外に、優れた人に近づいていきなさい。

そして、謙虚に生きていれば、必ず光っている手を差し伸ばしてくれる人がいます。

絶対にいます。

それを絶対に離すな!

それぐらい世の中と向き合う素直な心を養いなさい。

そして、盗んで昇華する!

勉強も仕事も生き方も、最初は真似から入ります。

個性は後回し。

それを考えながら反復していく。

そうやっていくうちに少しずつ自分の型が出来て、落ち着きや良い意味での余裕が出てくる。

そしたら、全力で人のために働いてください。

エネルギーがある若いうちに無理をして頑張って欲しいです。

そこにきっと生きる意味を見出せると思います!


そして、保護者の方へ

 城南コベッツは最初、北赤羽駅にありました。

当然のことながら、最初は小さい塾、小さい会社でした。

なかなか生徒が集まらない時期もありました。

夜中にチラシをポスティングして、気づいたら朝。

それに付き合ってくれた長谷先生の教え子たちがいました。

近隣の中学校の生徒対象に無料で英単語サーキットをやりました。

準備が大変だった。

教室もいつも綺麗にして、掲示も工夫しました。

当時の教室長の先生と、仕事に対する向き合い方で何度も何度も話し合い、ぶつかり合うこともありました。

大学生アルバイトの人選も大変でした。

経営者である長谷先生は、すぐに成果は出なくても諦めませんでした。

逆風の時にそれを変えられるかどうかって、上に立つ者として凄く大事だと思うのですが、いつも笑って、逆転劇を繰り返してきました。

これを読んでくれている保護者の方、

そんな時を経て、今の赤羽南教室があるということを頭の片隅に置いておいてほしいなと思うのです。

赤羽南教室を外から見ていて、

指導の仕方が上手い、とかそんな当たり前のことは敢えてここでは書きません。

それよりも、長谷先生や東木先生のいつもチャレンジングで投げ出さず、諦めない気持ちは、生徒さんたちに受け継がれていると思います。

是非安心して、赤羽南教室に子どもたちを預けてください。

絶対に大丈夫です!

自力で考えて解決する力をつける、そして人として成長していくお子さんを是非見守ってほしいなと思います。

あ、うちの子どもも、小学1年生から4年生まで、赤羽南教室に通っていました。

図形問題が得意で、本を読むのが大好きな子どもになっています。

論より証拠!!(笑)

これからも赤羽南教室をよろしくお願いします。

 

本当の最後に...

長谷先生とご飯を食べてるときに、

「自分と同じぐらいの稼ぎじゃ困る。自分よりビッグになってもらわないと困る。」

と言われました。

 

教え子として恥のないよう、

少しでもカッコいい大人になれるよう、

これからも与えられた仕事に全力で取り組んでいきたいと思います。

そして長谷先生のご家族に恩返しできるよう努めていくつもりです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

宮崎格久

 

2026.10.02

先日、RINGOJUKU WORKSで、内閣府の「ムーンショット型研究開発制度」について書きました。

2050年。

人間の身体や脳、空間、時間の制約まで、テクノロジーによって大きく変わっているかもしれない。

そんな未来について考えていたところ、もう一つ、とても興味深い政府の資料を見つけました。

厚生労働省が2016年にまとめた、

「働き方の未来2035:一人ひとりが輝くために」

という報告書です。

今から10年前に、「20年後、人間はどのように働いているのだろう」と本気で考えた報告書です。

読んでみて、少し驚きました。

なぜなら、そこに書かれていた2035年の姿の一部が、すでに始まっているからです。

AIによって、専門的な仕事であっても、パターン化できるものは自動化されていく。

働く場所や時間の制約が小さくなる。

一つの会社に所属し続けることが当たり前ではなくなる。

そして、人間には、人間にしかできない仕事がより重要になる。

2016年に書かれた文章です。

当時、ChatGPTはまだありません。

コロナパンデミックも起きていないので、リモートワークもそれほど浸透していませんでした。

ところが2026年の今、私自身、文章を考えたり、資料を調べたり、仕事の整理をしたりするために、日常的にAIを使っています。

10年前なら、人間が何時間もかけていた仕事です。

では、もう一つ考えなければならないことがあります。

今、教室にいる子どもたちは、どんな社会で働くのでしょうか。

2026年に5歳の子どもは、2035年には14歳です。

大学を卒業して社会に出るころには、2040年代になっています。

私たち大人が経験してきた社会とは、かなり違う社会になっているかもしれません。

だから私は、「将来困らないように、今のうちにたくさんの知識を覚えさせよう」だけでは足りないと思っています。

厚生労働省の報告書には、2035年の教育について非常に興味深いことが書かれています。

それは、

「自立するための教育」です。

自分の好きなこと、得意なことを知る。

世の中にどんな選択肢があるのかを知る。

そして、自分で道を選ぶ。

ただし、自由に選ばせればそれでよい、という話ではありません。

報告書は、将来方向転換するためにも、初等・中等教育の段階で共通の基礎能力を身につける必要があるとしています。

私は、この部分を読んで、以前このブログで書いた言葉を思い出しました。

「選ばせる前に、選べる人を育てる。」

自分で選ぶためには、自分で考えられなければならない。

自分で考えるためには、文章を読み、意味を理解し、言葉を使い、数量を扱い、比較し、試し、間違え、もう一度考えるための土台が必要です。

だから、りんご塾赤羽南教室で私たちが考える「思考力」は、難しい問題を解けることだけではありません。

私たちは、「考える=自分の力でなんとかしようとすること」だと考えています。

すぐに先生を呼ばない。

「分からない」で止まらない。

子ども自身が自ら、問題文をもう一度読む。

図を描いてみる。

積み木を動かしてみる。

知っている言葉に言い換えてみる。

間違えたら、どこがおかしかったのか考える。

教室では、小さな子どもたちが毎日やっていることです。

でも、2035年、2040年の社会を考えると、

これは単に算数をできるようにするためだけの練習ではないのかもしれません。

AIは、これからもっと賢くなるでしょう。

計算もする。

文章も書く。

翻訳もする。

プログラムも作る。

おそらく、私たちが今想像している以上のことができるようになります。

だからこそ、「AIより速く答えを出せる人間」を育てようとしても意味がない。

それよりも、何を知りたいのか、何を問題だと思うのか。

どの答えを選ぶのか、その答えを本当に信じてよいのか。

そして、自分は何をしたいのか。

そこを考えられる人間を育てる必要があるのではないでしょうか。

厚生労働省が2035年について書いた報告書を読みながら、私は改めて思いました。

未来のための教育とは、未来の技術を幼児に教えることではありません。

5歳の子にAIを教え込むことでも、10歳の子に大学の内容を先取りさせることでもない。

どんな時代になっても、自分の頭で考え、自分の言葉で理解し、自分の力でなんとかしようとする人を育てること。

それが結果として、変化の激しい未来を生きるための、一番古くて、一番新しい教育なのかもしれません。

2035年。

今、教室にいる子どもたちは、その社会を生きています。

だから私たちは、「今の入試に何が出るか」だけではなく、この子たちが大人になる世界から逆算して、今何を身につけるべきなのか。

そこまで考えて、子どもたちを見ていきたいと思っています。

ChatGPT 画像 2026年9月29日 16_18_33.png


新着情報

カレンダー

アーカイブ